物語 郊外住宅の百年

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モリスのベラミー批判

べラミーの『顧みれば』の刊行は1888年1月である。
その翌年1月に、ウィリアム・モリスは、自身が編集長を務める雑誌『コモンウォール』に、『顧みれば』について長文の批判文を掲載している。その批判は峻烈なもので、異常な気質を持ったユートピア小説だと決めつけ、巨大な専制国家による一元的管理が人々を理想都市に導くことの危険性を告発した。ベラミーが描き出した世界は、モリスにとって根本的に受け入れがたいものであり、「回避すべき悪魔の未来世界」と断じた。
このモリスの批判に関わらず、日頃の鬱憤を晴らしてくれるかに見える描写に興奮した読者は、これを理想モデルとする「ベラミー・クラブ」をアメリカ各地に立ち上げた。周辺の民主的人士まで惑わされていると見たモリスは、状況をくつがえすべく『ユートピアだより』の執筆に取り掛かった。

ユートピアだより
モリス『ユートピアだより(原題:NEWS from NOWHERE)』

この世界的名著は、ベラミー批判のために書かれたのであるが、この本でモリスが書いたことは、その後の世界を分ける、専制か共生かという分かれ道を明示していて今も新しい。
専制は、それが人々にとって幸福をもたらすことを描きながら登場する。
アドルフ・ヒトラーが政権を握ったのは1932年であるが、それを遡ること12年前にミュンヘンのビアホールで採択した、ナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党)の「25カ条綱領」は、全人口の食糧を充たす・利子制度の打破・養老制度の拡充・大百貨店を小企業者に賃貸・土地改革と地代の廃止・投機業者、不正商人等の死刑・母子保護と幼年労働の禁止などを掲げ、その中に優生思想(ユダヤ人絶滅)を入れている。
二・二六事件を引き起こした皇道派青年将校のバイブルになった北一輝の「日本改造法案大綱」は、経済不況による農村の救済・財政界の汚職事件の告発・普通選挙の実施・社会保障の拡充・国民の人権擁護・義務教育を10年延長とその国庫負担などを掲げている。

ナチスの母子援助活動
ナチスの母子援助活動広報切手
日本改造法案大綱
日本改造法案大綱

共に社会主義を奉じており、ファシズムは希望を照らす朝日のように登場したのだった。専制主義は、ソ連や中国の社会システムでもあって、多様なあり方は許容されず、異端者は排除される。
モリスは、その萌芽をベラミーの『顧みれば』に見たのではあるまいか。
モリスは、国に一身を任せるのではなく、分権的な小単位を基礎にして、多様な市民が政治に参加し、よき結論を得て行く社会システムが人を幸せにすると考えていた。ベラミーのそれは、その真逆のものであり、危険極まりないと立ち上がったのだった。
二人の違いはそれだけではない。いやむしろ、モリスにとって見逃せない違いがあった。それは労働観の違いにあった。
ベラミーの『顧みれば』が、機械制生産の進化によって、過酷な労働から解放され、飢餓の恐怖が除去されたことを嬉々として描いているのに対し、モリスは「労働に対する真の動機は、労働それじたいのなかにある喜びに存する」という。
われわれはモリスによる、アーツ・アンド・クラフツ運動を知っている。だから、モリスがここで何を言いたいのか、おおよそを理解できる。けれども、当時はどうだったのか。モリスの理解者以外は、モリスの方が変なことを言い出したと思われたのではないか。
初期キリスト教において労働は「原罪に与えた罰」だった。労働の中に「幸福」はなく、幸福は労働から解放されたときにあるとされた。アダムとイブはエデンの楽園から追放されるとき、神はアダムに「生涯、額に汗して土を耕し土にかえれ」と宣告した。
西洋思想の源とされる古代ギリシャにおいても、労働は奴隷たちが担うものであり、労働は卑しいことだった。貴族や市民は、戦闘を除けばもっぱら政治や芸術などの精神活動に明け暮れた。
16世紀のマルティン・ルターの宗教改革は、労働は原罪ではなく、隣人愛の具体的な表現であり、勤勉と倹約を心がければ魂の救済につながると唱え、それまでの労働観を一変させた。
モリスの少し前を生きたカール・マルクスは、労働ないし労働時間に対して階級なき社会においてのみ万人に利用可能な自由な時間が生まれるとし、労働を人間の「正常な生命活動」としてとらえた点で新しかった。このマルクスの考えは、モリスに大きなヒントを与えたものの、労働は地獄であり、余暇は天国とする考えは、べラミーのというより、当時の社会の支配的な労働観であったことは疑いない。
だからこそモリスは、ベラミーとは異なる未来社会を書くべし、と考えたのではないか。
『ユートピアだより』において、未来社会に入り込んだウィリアム・ゲスト(主人公・モリス本人がモデル)は、貨幣経済も労働賃金制度も消滅していることを知る。ゲストは、ハモンド老人に「報酬がないのに人はどうして動くのか」と聞く。ハモンド老人は「報酬ならたっぷりあります。創造という報酬が」と答える。つまり「みんな芸術家として仕事をしていることです」と。
産業革命の結果、大量生産による粗悪な商品があふれるなか、モリスは中世の手仕事に帰り、生活と芸術を統一することを主張した。「芸術は労働における人間の喜びの表現である」という考えのもとに、アーツ・アンド・クラフツ運動を起こしていた。

モリスによるアーツ・アンド・クラフツ

モリスのアーツ・アンド・クラフツによる壁紙

モリスは、壁紙、テキスタイル、椅子、書物制作のためケルムスコット・プレスを創設するなど、特権階級、王侯貴族の専有物だった芸術を、多くの民衆の生活の中に生かすことに取り組んだ。キーワードは、主体的創造的に「生活の美」を学びとり、一人一人が「労働の喜び」を知り、生活と芸術、労働と生活を統一することだった。
このモリスの行いを見ながら、私は「職業芸術家は一度亡びねばならぬ」と主張した宮沢賢治を思った。

芸術をもてあの灰色の労働を燃やせ。ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある。 都人よ来ってわれらに交われ。 世界よ。 他意なきわれらをれよ。

『農民芸術概論綱要』より

賢治は、これを羅須らす地人協会の農民たちを相手に書いたのだった。そしてまた、モリスが『ユートピアだより』で、ロンドンからテームズ河を船で遡りながらコッツウオルズに向かったように、賢治は、北上川を「イギリス海岸」に見立て、「イーハトーヴ(理想郷)」の世界を思い描いたのだった。

羅須地人協会
羅須地人協会(花巻観光協会サイトより)

モリスがロンドンで亡くなったのは1896年で、宮沢賢治はその年に生まれている。
もう一人、思い出したのは民藝運動を創始した柳宗悦である。
宗悦の『美の国と民藝』は、「生きている間に少しでもこの世を美しくしてゆきたい」という書き出しで始まり、「美の国を具現するためには、どうあっても民衆と美とを結び、生活と美とを近づけなければならない」と書いた。
宗悦は、贅を尽くした美術品が美であるという考えが支配的な中で、「用の美」を掲げた美の運動を起こしたのであり、国は離れていても、モリスの運動と軌を一にしている。
さて、ハワードとベラミー、アンウィンとモリスである。触れたくないことを、これから書かなければならない。

著者について

小池一三

小池一三こいけ・いちぞう
1946年京都市生まれ。一般社団法人町の工務店ネット代表/手の物語有限会社代表取締役。住まいマガジン「びお」編集人。1987年にOMソーラー協会を設立し、パッシブソーラーの普及に尽力。その功績により、「愛・地球博」で「地球を愛する世界の100人」に選ばれる。「近くの山の木で家をつくる運動」の提唱者・宣言起草者として知られる。雑誌『チルチンびと』『住む。』などを創刊し、編集人を務める。