奥村昭雄のデジタル・アーカイブ

連載開始にあたって / vol.1 木曽谷の民家

2009年07月17日 金曜日

奥村 昭雄のスケッチ帖イメージ

連載開始にあたって

建築家・奥村昭雄が、折に触れて描いたスケッチ帖を、大きなトランク二つ分、お預かりした。二つのトランクは、奥村が長い旅に出掛けるときに持って出るトランクで、遠藤楽さんたちとスペイン各地を回った旅でも、カナダのハリファックスから、そのままヨーロッパに渡った旅でも、また幾度か訪れたハンガリーへの旅のときにも携行された。この黄色と黒色のトランクは、何回か旅にご一緒したわたしにとって懐かしいものだった。
もうかなり古色を帯びていて、奥村の事務所兼自宅がある練馬中村橋から浜松まで運ぶのは、何やら難民が手にするトランクのようで、行き交う人からじろじろと視線を浴びている感じを受け、少しばかり気恥ずかしかった。
トランクには、大きなスケッチ帖もあれば、洋服のポケットに入るような小さなスケッチ帖もあった。旅先で描かれたものもあれば、木曽のアトリエで描かれたもの、練馬中村橋の事務所で描かれたものもあった。とにかく膨大な量である。何しろ、中村橋の事務所の一棚を占めていた、奥村の50年に及ぶスケッチ帖である。
農文協から発行されている二冊の「百の知恵双書」に掲載されたものや、雑誌等に掲載されたものもあるが、今回の「奥村昭雄のデジタル・アーカイブ」では、テーマ別に、網羅的に掲載することを申し入れ、快諾を得られた。
連載は長期に亙るものになるが、一人の建築家が何に興味を持ち、何を熱心に追ったのか、その軌跡を知る上で貴重な資料となるであろう。

さて、連載第一回に木曽のスケッチを選んだ。
奥村昭雄の木曾との関わりは、愛知県立芸術大学キャンパスの建築を機会に始まったものである。酷暑の東京のアトリエには冷房がなく、吹き出る汗がトレペに垂り落ちることから、奥村は涼しい木曽三岳村(現木曽町)のお寺の一室を借りて設計活動を行ったのだった。襖を開け放ったお寺の中は風が通って設計がはかどったという。
その滞在で、すっかり三岳村を気に入った奥村は、そこに山荘を建て、旺盛な設計活動の場にすると共に、そこをやがて家具制作の本拠地にしたのだった。
建築家が家具のデザインをやるのは、よくあることであるが、奥村はこの木曽において、原木の仕入れからはじめて、加工・組立・塗装仕上げ、そして販売まで行ったのだった。 
これは建築家にあって、異例のことである。
人は誰も、自らそんな面倒、厄介を背負わない。このことはいずれ紹介する「生ハム製造機」においても、また後に「OMソーラー」と呼ばれる空気集熱式ソーラーの展開においてもみられたことで、ここにわたしは、建築家・奥村昭雄の本領というべきか、ものづくりに対する姿勢の誠実をみる。
今回、掲載したスケッチは、木曽に来て間もない頃に、三岳村周辺を歩いて描いたものである。建てられた山荘は、木曽に古くからある板倉を譲り受け、ほかの解体した建物の材を加え建てられたものである。木曽五木の一つ、椹(さわら)を主とした材料で、その板厚もさることながら、飴色の表情は、材内部から押し出された脂のよさが顔に出ていて、いかにも木曽材というふうであった。
建物自体は、再生建築の先駆けであり、その嚆矢(こうし)として、また小さな山荘の名作として、これまで幾度も建築雑誌や書籍に取り上げられている。
わたしは、しばしばこの山荘を訪れているが、あるとき、この山荘を建てた職人のことに話が及んだ。そのとき奥村は、お酒をかなり呑んでいたということもあったが、頬を紅潮させ、まるで少年が語るようにしてかれらを称えた。
「田舎の大工や基礎工事人には図面が読めないのではと思って、図面の中にたくさんの絵を描き込んだけど、かれらそれを一瞥するだけで、図面をじっと見続けてね、寸分たがわないものを造ってくれたんだ。かれらは、工事が一段落つくたびに『見に来てくれや』というんだ。図面が読めないで困っているかも、と思って足を運ぶと、ただ仕事を見てくれと目配せをする。ぼくが『いいね』というと、かれらは、ただにっこりするだけで、余分な話はしないんだね」
奥村は、畏敬の念をこめて、この人たちは、世の中どうなっても生きて行く人たちだとも言った。生き抜く術を身につけている連中だと。
文明の利器に依存し、そこがひとたび壊れるとパニックに陥ってしまう現代人の脆弱さを言われたようで、ふだん文明の利器に頼るわたしは、穴があったら入りたいと思った。酔いながら、木曽の職人を称える奥村を見ながら、わたしは氏が一貫して持つところの視座の確かさを感じたのだった。
数々のスケッチからも、その視座の確かさを見ることができるだろう。

文/小池一三


vol.1 木曽谷の民家

1973/12/24 木曽・板倉* より<br />*板倉民家を再生したアトリエ(木曽三岳奥村設計所・家具部)

1973/12/24 木曽・板倉より

*以下本文は、百の知恵双書004『時が刻むかたち ─ 樹木から集落まで』
(奥村昭雄・著 農文協・発売)・第2章「木曽谷物語」よりの抜粋

 

1972/05/08 奈良井宿・伊勢屋

1972/05/08 奈良井宿・伊勢屋

1972/05/08 藪原宿・こめや

1972/05/08 藪原宿・こめや

中央西線が塩尻を出ると間もなく、両側に深い緑の山が迫ってくる。
木曽谷である。谷底の宿場街をいくつも過ぎる。

 

1972/05/06 木曽三岳村白川・原家(大屋)

1972/05/06 木曽三岳村白川・原家(大屋)

1972/05/06 木曽三岳村白川・下小路家

1972/05/06 木曽三岳村白川・下小路家

枝谷に入ると、もう平地といえるものはほとんどない。
川から四、五○メートル上がった段丘面に、
そこに畑を開いて暮らせるだけの数の家が取り付いている。
緩い勾配の大きな切妻(きりづま)屋根、
三○年前は板葺(いたぶ)き石置き屋根がほとんどだったが、
今はトタン葺きに変わってしまった。
総二階の大きな母屋はすべてが、木、深い軒の出。
その軒の出を支えている跳ね出し梁から吊り下げられた
バルコニーが二階をめぐっている。
豪放だが軽快感がある。少し離れて板倉(いたくら)が建つ。
これもすべて木。

 

1972/08/07 木曽三岳村藪原・南家

1972/08/07 木曽三岳村藪原・南家

南家は藪原集落の段丘の縁にある。
この家は大きな平側が谷に向いている。
荒々しい割り木を組んだ稲掛けが整った外観とよく似合う。

1973/08/10 木曽三岳村薮原・南家

1973/08/10 木曽三岳村薮原・南家

緩勾配の板葺き石置きの大きな屋根が特徴的である。
1階は居住部分で、馬小屋も母屋に含まれていた。
2階はすべて養蚕のスペース、
登り梁から吊った軽快なバルコニーが回る。
板倉は母屋から離れて建っている。

 

 1973年に移築・改造された板倉民家のアトリエ

1973年に移築・改造された板倉民家のアトリエ

試し葺のためのメモ

試し葺のためのメモ

このとき初めて板倉の組み方がきわめて特殊なものであることを知った。
すべての壁面の板が、柱と梁の溝に落とし込まれ、
梁や桁が抜きほぞで組み合わせてある「通し貫」の板倉は、
石を降ろせば屋根をはずすまではできるが、
壁は普通の方法ではどれひとつの材もはずすことはできない。
まず、すべての柱の足下に二枚の楔を打ち込んで、
柱を土台から浮き上がらせる。
そして、板倉全体に横にロープをかける。
ロープを少しずつ緩めながら、壁一面ずつを外側に傾けていく。
梁と桁とを組んでいた四隅のほぞがはずれれば、
壁面は上から分解できるようになる。
まるで箱根細工のようだ。建方の場合もこの逆順になる。
「建前」という段階がなく、
組み上がったときには板倉はほとんどできあがりである。

 

木曽三岳村黒沢野口・上村家の蒸籠造りの倉 西立面図

木曽三岳村黒沢野口・上村家の蒸籠造りの倉 西立面図

木曽三岳村黒沢野口・上村家の蒸籠造りの倉 南立面図

木曽三岳村黒沢野口・上村家の蒸籠造りの倉 南立面図

上村家は、ずっとこの場所に住み、
馬地主や酒造りを営んでいた。
五輪様のすぐ脇に、上村家の倉がある。
現存する倉は「蒸(せい)籠造(ろうづく)り」という
校倉(あぜくら)に似て柱のない建て方で、
そのなかでも非常に立派なものである。
これほど単純、豪放な造りはないだろう。
化粧される以前のスイスシャーレと
ほとんど同じである。
種籾(たねもみ)、あるいは酒造米をしまう
倉だったと思われる。

 

木曽・スケッチ集
01_01
01_02
01_03
01_04
01_05
クリックすると拡大します。

 

奥村と木曽

木曽 あの頃、夏になるとみんな木曽に寄った。パソコンで「よった」を変換したら「酔った」がでたが、その方が正解かも知れない(笑い)。日中、奥村は家具や図面描きに没頭し、夕方になると夕餉の献立を考えた。訪問者が魚などを持参すると、忽ち「黒猫子寿司」なる鮨屋が開店するというふうだった。開け放たれた窓からの冷気が心地よかった。夜は、みんなそこで寝た。たった16坪の建物なのに、こんなに大勢の人が泊まれるのかと思うほどに、見事に収容された。
撮影は半村隆嗣氏。

 

付録・木曽板倉の山荘
(「住宅建築」1979年6月号より)

木曽アトリエ01

木曽アトリエ02

木曽アトリエ03

木曽アトリエ03

木曽アトリエ05

木曽アトリエ05

木曽アトリエ06

奥村昭雄

建築家。1928年、東京都生まれ。1952年、東京美術学校建築科卒。同研究員として東京芸術大学改築計画担当。1956年、吉村順三設計事務所入所。1964年、東京芸術大学美術学部建築科助教授。1973年、同教授。木曽三岳村に板倉民家を再生しアトリエをつくる。1978年、木曽三岳木工所設立。現在、木曽三岳奥村設計所代表。東京芸術大学名誉教授。
代表的な建築作品に、星野山荘(1973年)、新田体育館(1983年)、阿品土谷病院(1987年)、関西学研都市展示館(1994年)など。著書に『奥村昭雄のディテール 空気・熱の動きをデザインする』(彰国社)、『暖炉づくりハンドブック』(建築資料研究社)、『パッシブデザインとOMソーラー』(建築資料研究社)、『木の家具作り』(INAXブックレット)、百の知恵双書004『時が刻むかたち』、同007『樹から生まれる家具』(農文協)などがある。

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