びおの七十二候

12

雷乃発声・かみなりすなわちこえをはっす

春分末候・雷乃発声

雷乃発声と書いて、かみなりすなわちこえをはっすと読みます。
遠くで雷の音がして、稲光が初めて光る時候をいいます。
三月初旬にある啓蟄のころに鳴る雷は「虫出雷(むしだしかみなり)」と呼ぶそうですが、春分以降の雷は「春雷」と呼ばれ、雷鳴が轟くようになります。しかしそれは、一つ二つ鳴ったかと思うと、それきり止んでしまいます。夏の雷雨とは違うようです。

今候の句は、かなり渋い句です。このページは、時折、渋い句や歌を紹介していますが、そのなかでも、きょうは飛び切りのものです。

陋巷ろうこうに生きて目刺めざしに飯うまし   清原枴童かいどう

陋巷とは、貧しい裏町など、せまくてむさくるしい町すじ(角川中漢和辞典)をいいます。陋という漢字の訓読みは「せまい、せまし」。音読みは「ロウ、ル」と読みます。陋は、陋屋(ろうおく/せまくてむさくるしい家)や、陋見(ろうけん/せまくてつまらない意見・考え)などの言葉にみられるように、およそ切ない境遇のものです。せまい小路に生きてメザシに飯うまし、というのですから……。
もしこの句をして、ここには高雅な精神性があるといえば、それは買い被りだという人があるかも知れません。詠みびとは、清原枴童(きよはらかいどう/1882〜1948年没)です。
枴童について書こうと思いますが、その前にメザシが春の季語だということについて書きます。
メザシは、干物の一種。カタクチイワシやウルメイワシなどのイワシ類の魚を、塩漬けした後、目から下あごへワラを通して数匹ずつ束ねて、乾燥させたものをいいます。ふつうは焼いて食べます。虚子に「目刺のにがみ 酒ふくむ」という句がありますが、焼いたメザシには日本酒が似合います。

ぢか火とて紺青焦げし目刺かな   吉岡禅寺洞ぜんじどう
一と口の目刺のにが味舌にあり   高浜年尾

なども、メザシの苦味を詠んでいます。けれども、魚の背には紺青の色が残っていて、そこに海があります。メザシを詠んだ名句とされる龍之介の

木枯らしや目刺にのこる海の色

は、秋色の木枯らしとメザシの「海の色」の対比が鮮やかです。
イワシは、春と秋に産卵のために沿岸にやってきます。龍之介のメザシは秋、清原枴童のメザシは春です。
日本海では、水温が12℃を超えると、マイワシやカタクチイワシが大陸棚の沿岸にやってきます。ウルメイワシは、鹿児島や銚子沖など南の沿岸にやってきます。近年、不漁が続いているとはいえ、それでも時季がくると確実にやってきます。
イワシは、大きな口を開けて海中のプランクトンを食べて育ちます。そのイワシを、サバやカツオ、ブリなどが食べて育ちます。イワシは、海の食物連鎖の上で大きな役割を果たすことから「海の牧草」といわれています。
江戸時代の女性たちは、イワシを「むらさき」と言い慣わしました。イワシの群れは、遠くから見ると紫色に見えるからだそうです。
イワシは、背の青い魚に多く含まれるエイコサペタエン酸(EPA)をたくさん含んでいます。不飽和脂肪酸の一種ですが、心臓の冠状動脈が詰まることで起こる心筋梗塞を防ぎ、血液動脈硬化、高血圧などの生活習慣病を防止する効果があります。
イワシはカルシウムを多く含んでいることでも知られていますが、素干し煮干しにすると、さらにカルシウム価が高くなります。カルシウムは精神を安定させる働きがありますので、メザシをよく食べると心静かになれるというわけです。

「メザシに飯うまし」と詠んだ清原枴童の句は、冷徹な写生というべきものであって、それでいてポエジーがあります。

買初に吹かれ出でゆく妻子かな
蝶とぶや観世音寺の鐘遠く
地の涯に倖せありと来しが雪
生きんとし日の出のごとく木を伐りに
土砂降の夜の梁の燕かな
心太ところてん山の緑にすすりけり

枴童は九州の人です。若い俳人の面倒をよくみた人だったといいます。庶民の哀感がよく分る人だということは、これらの俳句からうかがえることですが、かといって自分の境遇を嘆く「境涯きょうがい俳句※1」というわけではありません。どの句にも、高雅なポエジーがあると思われませんか。

文/びお編集部

春の雨

いざわ直子作 花を咲かせる春の雨
画/いざわ直子

この時季は、「一雨ごとに暖かくなる」という話をよく耳にします。

雨は、上昇気流で運ばれた空気中の水蒸気が、上空で冷やされて雲になり、その雲の中で大きくなった水(雨粒)が降ってくるものです。上昇気流は気圧差や気温差によって起こります。気温差、すなわち暖かいほうと冷たいほうがあって、雨が降ることで、暖かい空気が勝って、だんだんと春を運んでくるのでしょうか。

冬の冷たい雨、梅雨時のじっとりした雨、夏から秋に見られる豪雨と比べると、春の雨には優しさがあふれています。

俳句では、「春の雨」と「春雨」は区別されていて、芭蕉は「春の雨」は旧暦正月から2月初め、「春雨」は旧暦2月末から3月に用いる、と述べています。

旧暦では今頃が2月の中旬にさしかかるころで、ちょうど「春の雨」が「春雨」に切り替わるころでしょうか。これからの雨は、花を咲かせ、作物を育て、4月の「穀雨」へと繋がっていきます。

月形半平太の名台詞、「春雨じゃ。濡れてまいろう。」に代表されるように、春雨には、なぜか濡れてもいいか、と思えるような風情があるのです。

春雨という食材があります。春の雨を想起させる細く長いことからつけられた名前です。中国名では「粉丝」や「冬粉」などと呼ばれます。春雨の原料は緑豆のでんぷんです。同じようにでんぷんから作られたものに、米を原料にした「米粉(ビーフン)」があります。

現在は、春雨も緑豆ではなく、サツマイモやジャガイモから作られたものもありますし、ビーフンにもトウモロコシ由来の原料が多く含まれていることがあります。

もともとは、その土地で採れた作物をつかった食材だったはずのものが、いつのまにか、安く手に入る代替品にかわっていることがあります。この種の作物を多く作っているアメリカでは、食品の遺伝子組み換え作物の表示が義務付けられていませんが、TPPに参加すると、こうした部分が日本にも強要されるのでは、という疑念も依然として消えていません。

それにしても、「春雨」の命名の妙に、日本の美意識を感じずにはいられません。21世紀を迎えて10年以上たった今、私たちにこういう名の付け方が出来るでしょうか。新製品のカタカナ名称や、近年の市町村合併で生まれた多くの無味乾燥な地名を見るかぎりは、なかなか希望を見出すのもむずかしいことは否めませんが…。

せめて、よき名が付いたものが、どうしてこういう名なのかは、次の世代に伝えていくことで、春雨に濡れたくなるが如く、ささやかな抵抗を。

文/びお編集部
※1:作者(俳人)の人生・境涯に根ざした俳句のこと。主として病気・逆境・貧困を詠うことが多い。
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2009年03月31日・2013年03月20日の過去記事より再掲載)