びおの七十二候

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水沢腹堅・さわみずこおりつめる

水沢腹堅

大寒の真ん中、沢を流れている水も寒さに凍る、という候です。
川が凍るかどうかは、物理的には、外気温と、川の高低差による運動と、川の水が持つ比熱と潜熱などの熱エネルギー間の転換効率によります。
氷瀑(ひょうばく)という季語があるように、条件次第では滝すら凍ります。
氷瀑といえば、茨城県大子(だいご)町の袋田の滝がよく知られています。4段にわたる滝は、落差120メートル、最大幅は73メートル。数年に一度だけ、夜の気温が低く降水量が少ない時に全面凍結します。
氷瀑は、四国の石鎚山の高瀑(たかたる)の滝でも、阿蘇・高岳(1592メートル)の中腹にある仙酔峡(熊本県阿蘇市)でも確認されています。それぞれ100メートルを超える落差を持つ巨大な氷柱です。

巨大な滝ということでいえば、ナイアガラの滝が有名です。この滝が完全に凍ったのは1848年一回だけだそうです。あのあたりは氷点下30℃になることがあり、それでもナイアガラの流れが完全になくなるまで凍結することはありませんので、全面凍結したといわれる1848年の寒波がどのようなものであったか、想像するだけで恐ろしくなります。
カナダ中部のエドモントンに行くと、冬は氷点下45℃、夏は38℃、夏と冬の温度差は73℃という話を聞かされます。
冬のエドモントンに行ったことはありませんが、冬の北欧のラップランドには行っています。氷点下15℃を超えると、路面の凍結が進み硬度を増しますので、フルスピードで走っても大丈夫だといいます。氷点下15℃以下になって弛むとスリップが起るそうです。しかし、氷上をフルスピードで走られると、生きた心地がしないもので、走行中、ずっと身を固くしていました。
滝は、どのように凍るかというと、滝壺の端の方から段々凍って行って、登りながら凍るそうですね。水は上から下に流れますが、滝は下から上に向かって凍るのです。

凍った滝の下から上を臨み、幾筋もの氷柱に目を向けたら、狭い空が真っ青に抜けていて感動したことがあります。氷の世界にいながら、あまりの明るさに、春遠からずということを感じました。その折に、ひょいと思い出したのが三橋鷹女の句でした。

春の夢みてゐて瞼ぬれにけり

この句で鷹女がみた夢が、果たしてどういう夢だったのか分かりませんが、鷹女の人生をたどると、それなりに想像はつきます。しかしながら、宮澤賢治が「風景は涙に揺すれ」と言ったように、その風景が自身の内的なものに触媒されると、自然と瞼が濡れていることがあります。このときがそうでした。だれしも、そんな経験を一度や二度、持っていると思います。
ただ、鷹女の夢は、哀しい夢ではあるけれど、名状しがたい甘美さを伴っていて、どこまで行っても鷹女なのですね。

千の蟲鳴く一匹の狂ひ鳴き

鷹女の代表とされる句の一つです。幾千もの蟲(虫ではなく蟲)が鳴き喚いていて、その中に狂い鳴く一人の自分がいるというのです。鷹女は、1972(昭和47)年に亡くなりました。その枕元に置かれたノートに23の句が遺されていました。この句は、その中の一句です。
鷹女は1899(明治32)年の生まれなので、72歳で亡くなりました。いわばその絶句として詠まれた句が、この句だというところに、鷹女の鷹女たるユエンがあります。才気に満ちた俳人として出発し、一世を風靡した女流俳人が、老い衰えてなお、奔流となって溢れ出る生々しい自分を、ためらいなく曝け出すのが鷹女です。

この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
墜ちてゆく炎ゆる夕日を股挟み
初嵐して人の機嫌はとれませぬ
つはぶきはだんまりな花嫌ひな花
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
老いながら椿となって踊りけり
鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪うべし

鞦韆は、ブランコのこと。
どの句を詠んでもシャープで、現代的です。大胆で烈しく、自由奔放で、凄絶であり、そして幻視的です。「我あり故に我あり」です。魔力が顔に出ている「我あり」です。
「夏痩せて……」は、鷹女三十七歳の時の句です。「嫌いなものは嫌い」と、こんなにも明快に言えるのは、ほかに志賀直哉がいますが、志賀直哉は老いて「椿となって踊」るようなことはありません。この椿の句は、自分の老いを否定していませんが、年相応の反応をそこにみることはできません。「椿となって踊りけり」というのですから。
大岡信は『新 折々のうた9』の中で、鷹女には「近寄りがたい気品と気丈さがあった」と書いています。
最後の「鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし」は、鷹女を代表する句とされますが、最近では、高校の教科書に掲載されているそうです。NHKのスペシャル番組で、最近の若い男は中性化し、子孫を残せないのではと言っていましたが、この句に、きっと男子生徒はどぎまぎしたことでしょう。「愛は奪うべし」は、有島武郎の「惜しみなく愛は奪う」の引用といわれていますが、鷹女は、有島武郎と波多野秋子の情死をどうみていたのか、そんなことも気になりました。

鷹女は、成田の名士の家に生まれました。家は裕福でした。やがて、医者の東謙三と結婚します。その句には、経済的には困った形跡はなく、夫も俳句をやっていたこともあって、環境による束縛を受けたことはありません。

燕来て夫の句下手知れわたる

この句は、夫の謙三を揶揄したものです。
鷹女の晩年の句集「羊歯地獄」の自序に、こんな一文があります。

一句を書くことは 一片の鱗の剥奪である
一片の鱗の剥奪は 生きていることの証だと思ふ

一片づつ 一片づつ剥奪して全身赤裸となる日の為に
「生きて 書け・・・」と心を励ます

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2009年01月27日の過去記事より再掲載)

ストーブにあたる猫