びおの七十二候

68

水泉動・しみずあたたかをふくむ

水泉動

この候にいう水泉とは、湧きいでる泉のことをいいます。
寒さの厳しい小寒ですが、季節は動いていて、地中では凍った泉が融けて動き始めました。
七十二候のおもしろさは、あたり一面、冬枯れの凍った土にあって、生命の躍動を感じさせるものが何もなくても、その土の下では春が用意されているという、その先読みにあります。そして日を追うごとに、それが如実になって行って、やがて啓蟄をむかえるのです。
自然は、大きく、深く、ほんの小さな、しかし確かな兆しを示しながら、ゆっくりと動いているのです。

特集で寒ブリが取り上げられていますので、きょうは句の紹介は「寒ブリ」にします。

女あり父は魚津の鰤の漁夫  高野素十

高野素十(たかのすじゅう/1893〜1976)の句です。
素十は、高浜虚子の模範生です。その作風は虚子の唱えた「客観写生」に忠実で、主観的なこだわりを持たず、作品には、装飾も虚構もありません。ただ、見たままを即物的に描写して、ひたすら「客観写生」することに徹しました。
そういう素十のことを知ると、この句は想像で詠まれたものではなく、必ずモデルとなった場所があり、そこに人がいることが想像されます。そしてそれは、どんな場所で、どんな人なのかが気になります。
この句は「女あり」で始まります。「女あり」とは、少し乱暴な物言いです。句会に居合わせた女性とは思えません。素十は医科大学の先生でもありましたが、講座の女子学生とも、女性看護師や医局員とも、大学病院に来る患者の女性とも思えません。奥さんなのかというと、これも違うように思います。
乱暴な物言いとはいえ、その女性を侮蔑しているわけではありません。この句の構造は、「父は魚津の鰤の漁夫」あっての「女あり」です。この女性に、ある種の(つよ)さを感じ、「父は鰤の漁夫」と聞いて、なるほどと合点が行ったという感じです。
そのようにみると、小さなおいしいものを食べさせる小料理屋のおかみかな、と想像してしまいます。
その小料理屋の付き出しでブリの内臓を使った煮なますが出されました。素十は、辛口のお酒をちびりとやり、煮なますを口に運び、ぼそっと喋ります。

「これ、いけるね」
「魚津の鰤よ」
「越中魚津。蜃気楼の町だね」
「見たことあります」
「ないけど」
「初めてみた人は風景と勘違いするみたいよ」
「煙突が建っていたり、工場があったりするんだ」
「そう」
「魚津か……」
「魚津は米騒動の発火点の町でもあるのよ」
「恐いね」
「そうよ、恐いですよ」
「あの町、行ったことあるんだ」
「ほんとう!」
「冬にね。漁港まで歩いてね」
「駅から港までは距離があったでしょ」
「旧い家が並んでいてね、裸電球の外灯が燈ってた」
「ふーん、あのあたりをね」
「知ってるの」
「棲んでたのよ」
「そうなの。ということは、親は鰤漁師ってわけだ」
「そう。……干物、炙るわね」
「振り返ると後立山の山があってね」
「僧ケ岳、毛勝山、剱岳、立山、大日岳……」
「一度、湾のなかから見たいね」
「波が高いわよ」
「船酔いするかな」
「たいがいの人はダメね」
「みたいのは、船より高い波間から」
「むりむり。……はい、干物」
「ウマズラハギ?」
「ウマズラハギが多い年は鰤がさっぱりなの」
「むずかしいもんだね」
素十は、壁に貼ってある句をみて、
「真向ひに立山のある鰤場かな。東雲の句だね」
「お客さんがくれたの」
「……女あり父は魚津の鰤の漁夫、なんてね」
「何、それ」
「ウマズラハギ、おいしいよ」
「魚津産だからよ」

素十がこの句を詠むと、こんなショートストーリーが思い浮かびます。素十の句は、句自体が素っ気ない分、想像を逞しくさせる余地があります。

素十の俳句上の対立者であった水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)は、素十の句を、即物的で無味乾燥で美学を欠いていると批判しました。ぼくはどちらかというと秋桜子の肩を持つ方ですが、この素十への批判については、その批評で括るのはどうかと思います。確かに、この句も一見単純な情景描写にみえます。素っ気ありません。しかし、その光景は情景描写だけでない、空間的な広がりを持っていて、文学的な感銘があるのです。

百姓の血筋の吾に麦青む

素十の生れは茨城県北相馬郡。生家は農家でした。この句は、麦が青むころになると、自分のなかで土への郷愁が呼び起こされることを実に素直に詠んでいます。しかし、この句の末尾に「麦青む」という季語を用いることで、単なる個人体験ではない普遍へと昇華させています。さすがホトトギス派を象徴する俳人だと思うのです。
鰤は旬の魚で、鰤というだけで冬の季語になっています。素十の句は、季語を以て、世界を止揚させる手技といいますか、いずれの句も季語が巧みに用いられています。

最後にブリの句を何首か紹介しておきます。

佐渡の上に日矢旺んなり鰤起し  岸田稚魚
鰤漁へ出づるに煽る茶碗酒  木内彰志
鰤網を敷きてとどろく雪の灘  谷迪子
鰤捌くひとに声かけ舟屋口  高田きみえ
鰤の海沖津白波加へけり  水原秋櫻子
鰤どころ鯨どころや紀伊の海  高浜虚子
足摺の寒鰤椿鰤といふ  坂本鬼灯
ミサ終へて寒の鰤割く修道女  淵脇護
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2009年01月10日の過去記事より再掲載)

水を飲む猫