びおの七十二候

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朔風払葉・きたかぜこのはをはらう

朔風払葉

上州と筑波、遠州は、空っ風で知られます。
空っ風は、天気続きの日に吹きすさぶ山越しの乾いた北風です。上州は「赤城おろし」、筑波は「筑波おろし」(茨城県南部)、遠州は、後背の北西の山々からの下降気流によって空っ風が生じます。
北風は、冬に吹く北西方向からの季節風をいいます。北風は、日本海をわたるときに水分を持ち込んで脊梁山地にぶつかります。それが日本海側で多くの雪を降らせます。山を越えた太平洋側では乾燥した風になります。それが空っ風です。

胸中に抱く珠あり空っ風  富安風生(ふうせい)
から風やわれ上野(こうづけ)の荒育ち  倉沢翠山

空っ風に向うと、人は胸中に抱く珠を見出したり、自分は群馬の荒育ちだというような、あらくれの気分になれるのでしょうか。
そういえば、ロシアの詩人セルゲイ・エセーニンに、

風よ吹け おれは 
お前と同じ ならず者

という詩があります。エセーニンは、ロシアの農村と農民をうたった詩人です。
「天国はいらない、ふるさとが欲しい」
といい、革命に農民ユートピアをみましたが、挫折し、絶望してしまって、わずか30歳で自ら命を断ちます。この詩に、侠客の強がりに似た気概を感じます。あらくれに夢をみたエセーニンの思いが、せつなく伝わってきます。

風は、「風が吹けば桶屋が儲かる」といわれるように、さまざまな余波を巻き起こします。波もその一つですし、木の葉が舞い散る凩(木枯し)もそうです。
今回の設題は、この「木の葉」です。
木の葉は、そよそよとした風で落下することもありますが、木の葉雨と形容されるように、さざめきながら舞い散ることもあります。後者は、凩(木枯し)が吹いたときです。

晩秋に、葉だまりの山道を歩いたことがありますか。カサ、カサと音を立て、くるぶしまで落ち葉のなかに漬かります。仰ぎ見ると、裸身になった木が真っ青な空に梢を立てています。その厳しくも凛々しい姿に、これから冬を耐え抜く覚悟のようなものが感じられて、思わず身震いします。桜の巨木の梢をみると、もう新芽をつけていて、あゝ桜という奴は、こうして冬をくぐって春に花を咲かせるのだな、と思います。落葉樹は、どの木も木の葉を落下させると同時に新芽を育てているのです。裸体を晒し、梢の先端を尖らせながら、凄いなこいつら、と畏敬の思いを抱かせます。

凩(木枯し)は秋の季語なのか、それとも冬の季語なのか議論があるようです。秋の初風として詠まれることもあり、歳時記では初冬とされる場合が多いようです。
ところが、それによって舞い落ちる木の葉は、歳時記では「三冬」で、木の葉はもう冬そのものです。しかし、万葉集に詠まれた

秋山に霜ふり覆ひ木の葉散り歳は行くとも我忘れめや  (相聞歌2232)

は、秋の歌です。このあたり、俳人や歌人でなければ、目くじら立てることはなく、まあ、どちらでもいいことなのかも知れません。

さて、今候は加藤楸邨(しゅうそん)の句です。

木の葉ふりやまずいそぐないそぐな  加藤楸邨

          
楸邨は、1905(明治38)年〜1993(平成5)年。俳人、国文学者。
本名は加藤健雄。妻は俳人の加藤知世子。東京北千束(現・東京都大田区北千束)に生まれました。父が鉄道官吏であったため、父の転勤により、少年時代は関東、東北、北陸を転居しました。父の定年退職に伴い、母の郷里の金沢に移り住み、そこで中学校(金沢一中)を卒業後、代用教員を勤めます。
父の病死を期に上京。東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学。その後、教員生活のかたわら俳句を始めます。水原秋桜子(しゅうおうし)に師事し、馬酔木の同人となります。

朧にて落つるハンマー音おくれ
頑に汗の背中や泥鰌汁(どじょうじる)
鉄壁の心の隙に風鈴鳴る
鰯雲人に告ぐべきことならず
隠岐やいま木の芽をかこむ怒濤かな
火の奥に牡丹崩るるさまを見つ
鮟鱇(あんこう)の骨まで凍ててぶちきらる
死ねば野分生きてゐしかば争へり
百代の過客しんがりに猫の子も
ふくろふに真紅の手毬つかれをり

これらの句は、加藤楸邨(しゅうそん)が「真実感合」を唱え、人の内面心理を詠むことを追求した、人間探求派の俳人であったことを、よく示しています。

木の葉ふりやまずいそぐないそぐな

という句は、楸邨が病床で詠んだ句といわれています。病臥に伏したとき、正岡子規のように立ち向かえる人は例外的で、焦燥に駆られる人が大半で、「いそぐないそぐな」と、自分に言い聞かせる楸邨に、身近なものを感じる人は少なくないと思います。
ここでは「木の葉ふりやまず」は、自分に影を落とす運命を暗示させます。それに抗うことなく、肉体の回復を焦らずに待つことを、楸邨は自分に言い聞かせるのです。

かつてロッテに所属したマサカリ投法の村田挑治投手は、現役投手としての晩年、故障した箇所を毎日お酒で塗っていたという話を何かで読みました。中日ドラゴンズの谷沢健一打撃手も、同じことをしていたそうです。村田選手は、その後引退しますが、60歳近くになった今でも剛速球を投げられ、あの切れ味するどいフォークボールを、時折投げるそうです。野茂秀雄投手は、大リーグで雇ってくれるところがなくなったら、南米のベネズエラに渡って、回復をはかりました。
北京オリンピック前に故障した、マラソンの野口みずき選手は、今どんなふうに自己回復をはかっているのでしょう。高橋尚子選手は、今年は3レースに出ると練習に励んできましたが引退しました。それをあれこれいう人もいますが、自分が納得行くまで努力したことに意味があるのであって、それはやはり栄光の引退だと思います。
一流のアスリートほどに、つきつめたものはありませんが、人は「木の葉ふり」やまない毎日を過ごしながら、「いそぐないそぐな」と自分に言い聞かせて生きることで、何かをこの世に生み出しているのです。逸っては、事を仕損じますから。自戒。

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2008年11月27日の過去記事より再掲載)

落ち葉と猫