びおの七十二候

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涼風至・すずかぜいたる

涼風至

涼風といえば軽井沢を思い浮かべる人が少なくないでしょう。けれども、軽井沢は実は湿気の多いところで、朝夕は涼しいものの、日中は結構暑いところです。にもかかわらず、爽やかな印象があるのは、堀辰雄や立原道造の文学の印象にさずかるところ大ではないでしょうか。彼らは、人生そのものが一陣の涼風のようにすずやかです。
堀辰雄の『風立ちぬ』という小説のタイトルは、松田聖子の歌のタイトルにもなり、如何にも清々しい風を連想させます。この小説は、とてもつらい話が書かれているのですが、風がすべてを浄化してくれて、風がものみな(すべてのもの)をやさしく包んでくれます。
同じ軽井沢を舞台にした詩人といえば立原道造です。堀辰雄は48歳、立原道造は24歳8ヶ月で亡くなっています。共に結核病を患っての夭逝ようせい(1)です。堀辰雄が亡くなったとき、道造は「もう私はすっかりひとりだ 私みずから私は風に濡れてゐる」(「巣立ち」)と詠みます。

丘の南のちひさい家で 
私は生きてゐた! 
花のように 星のように 光のなかで 
歌のように (「風詩」) 

おまへのひそよぎが そよそよと
すべてを死なせた皮膚をだくだろう (「風に寄せて」その二)

立原道造の詩には、風を詠んだものがたくさんあり、それは死の影であったり、生そのものであったりします。

ゆさぶれ 青い梢を
もぎとれ 青い木の実を
ひとよ 昼はとほく澄みわたるので
私のかへって行く故里が どこかとほくにあるやうだ

何もみな うつとりと今は親切にしてくれる
追憶よりも淡く すこしもちがはない静かさで
単調な 浮雲と風のもつれあひも
きのふの私のうたってゐたままに

弱い心を 投げあげろ
噛みすてた青くさいたねを放るやうに
ゆさぶれ ゆさぶれ

ひとよ
いろいろなものがやさしく見いるので
唇を噛んで 私は憤ることが出来ないやうだ
(「わかれる昼に」)

音楽的で、水彩画のように淡いけれど、濃密に青春がうたわれていて、青春にしか詠めない詩だと思います。道造を包むのは、いつも高原の風でした。

吉本隆明は、道造の詩について「「風」のように自在に、しかも地面に触れずに物象や事象に滲みとおってゆく距離感を手に入れていた。この距離感は、日本古典詩形の円熟期のアンソロジー『新古今集』からえたものだと思う」と全集の推薦文に書いています。

立原道造は、詩人であると同時に建築家でもありました。

彼は、わずか五坪の週末住宅を建てようとして、50にも及ぶプランを作りました。彼はこの住宅を「風信子ヒヤシンスハウス」と呼びます。しかし、このプランは道造が亡くなったため実現されませんでした。それから66年後の2003年、道造が建てようとした浦和市別所沼が公園となり、さいたま市が政令指定都市に移行したことを機会に、市民と行政が協同して、ヒヤシンスハウスが建てられました。

草稿「鉛筆・ネクタイ・窓」から
 僕は、窓がひとつ欲しい。
 あまり大きくてはいけない。そして外に鎧戸、内にレースのカーテンを持つてゐなくてはいけない、ガラスは美しい磨きで外の景色がすこしでも歪んではいけない。窓台は大きい方がいいだらう。窓台の上には花などを飾る、花は何でもいい、リンダウやナデシコやアザミなど紫の花ならばなほいい。
 そしてその窓は大きな湖水に向いてひらいてゐる。湖水のほとりにはポプラがある。お腹の赤い白いボオトには少年少女がのつてゐる。湖の水の色は、頭の上の空の色よりすこし青の強い色だ、そして雲は白いやはらかな鞠のやうな雲がながれてゐる、その雲ははつきりした輪廓りんかくがいくらか空の青に溶けこんでゐる。
 僕は室内にゐて、栗の木でつくつたモタれの高い椅子に座つてうつらうつらと睡つてゐる。タぐれが来るまで、夜が来るまで、一日、なにもしないで。
 僕は、窓が欲しい。たつたひとつ。……

ひやひやと壁を踏まえて昼寝かな  芭蕉

※1:若くして亡くなること

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2008年08月08日の過去記事より再掲載)

風鈴と猫