びおの七十二候

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桜始開・さくらはじめてひらく

春分次候・桜始開

「桜始開」は春分の次候。
「さくらはじめてひらく」と読みます。うららかな春の陽気に誘われて、桜の花が咲き始める頃をいいます。
平安時代からこちら、「花」といえば桜を表しました。

世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどけからまし  在原業平

もし桜の花がなかったら、桜が咲いたの咲かないのと、こころ騒がせることもなく、のんびりした気持ちでいられたろうに、というのです。
今年も、桜前線が南から北へと移動し、春華やぐ季節となりました。
今年の開花日は、例年より早いようです。日本気象協会の桜(ソメイヨシノ)の開花予想によると、九州や四国では記録的に早くなっており、東日本と東北地方も早い見込みです。
ここにいう開花日とは、その地域の標本となる木が、5〜6輪以上、花が開いた状態の日をいいます。また、満開日とは、標本木の80%以上の蕾が開いた状態の日をいいます。

今候は、桜の花ではなく桜餅さくらもちを詠んだ句を紹介します。

さくら餅うち重なりてふくよかに  日野草城そうじょう

さくら餅は、お馴染みの桜の葉を用いた和菓子です。桜の葉に包むことで、その芳香を生地に移して桜の風味を楽しむお菓子です。
さくら餅は、関東と関西で異なります。関東のそれは、長命寺餅といわれ、小麦粉の生地を焼いた皮でクレープのように餡を包んだものをいいます。関西のそれは、道明寺餅といわれ、もち米を蒸かして干した粒状の皮に、大福のように餡を包んだものをいいます。桜の葉で包み、包皮を食紅で桜色に染めるのは共通しています。
大島桜は、葉がやわらかく毛が少ない大島桜の葉を塩漬けにして使います。主として伊豆半島の松崎町(長八ちょうはち美術館のある町)で生産されています(全国シェア70%)。
食べる際に、桜の葉を取るか、取らずにそのまま食べるか、人によって異なるようですが、塩気を含んだ葉が餡の甘味を引き立て、さくら餅の独得の風味を引き出していますので、葉は食べないという人も、丸ごとのさくら餅を一度味わってみてください。

日野草城の句は、「うち重なりてふくよかに」という形容と、東京上野生まれということから、長命寺のものと思われます。いかにも春の訪れを表す句で、さくら餅の食感までが伝わってくる句です。長命寺は向島にあり、その門前の桜餅屋の二階を学生時代の正岡子規が借家にしていました。子規とさくら餅は、いい取り合わせだと思いませんか。

日野草城(ひのそうじょう/1901〜1956年)は、高浜虚子きょしの『ホトトギス』に学び、21歳で巻頭の句を飾り、注目を集めました。1934年(昭和9年)『俳句研究』に、新婚初夜を描いた10作「ミヤコホテル」を発表しました。この「ミヤコホテル」はフィクションでしたが、この連作をめぐって、ミヤコホテル論争が起きました。
その10作とは、

けふよりのと来てつる宵の春
夜半の春なほ処女おとめなると居りぬ
枕辺の春のともしが消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
バラ匂ふはじめての夜のしらみつつ
ぬかに春の曙はやかりき
うららかな朝のトーストはづかしく
湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や相触れし手は触れしまま
失ひしものをおもへり花ぐもり

草城は新婚旅行に行っていません。
虚子の弟子を任じる中村草田男くさたおは、「何と言う救うべからざるシャボン玉のような、はかなくもあわれなおっちょこちょいの姿」(『尻尾を振る武士』)と批判します。
草城の擁護にまわったのは新興俳句系の俳人たちで、文壇では室生犀星むろうさいせいが「侘びや枯淡こたんの芸言づくめの俳壇にあらわれ」(俳句は老人文学ではない)たことを、高く評価します。このミヤコホテル論争が後に虚子から『ホトトギス』除籍とされる端緒たんしょ※1になりました。虚子と袂を分かった草城は、無季俳句を容認し、モダニズム俳句の旗手となり、「俳句を変えた男」(復本一郎)とされます。以下は、晩年の句です。

春暁しゅんぎょうやひとこそ知らね木々の雨
松風に誘はれて鳴く蟬一つ
秋の道日かげに入りて日に出でて
荒草の今は枯れつつ安らかに
見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く
文/びお編集部

庭とぼたもち

春分ー庭とぼたもち祖父江ヒロコ
毎年よ、彼岸の入りに寒いのは

「暑さ寒さも彼岸まで」といいます。子規が母に、彼岸だというのに寒いと語ったところ、母はこのように答えたといいます。年に2回の「彼岸」がありますが、このように季語は春。

彼岸の中日は春分の日。昼と夜の長さがほぼ等しくなる日です。

彼岸というのは、仏教でいうあの世のことで、現世(此岸)に対するあちら側です。
般若心経、正式には般若波羅蜜多心経にある「波羅蜜多はらみた」は、サンスクリット語のパーラミターを漢字で表記したものです。

パーラミターは、彼岸を意味する「パーラ」と○○に至るの「イター」からなる言葉で、彼岸に至る、という言葉です。
彼岸は悟りの世界で、此岸は煩悩の世界。彼岸に至るというのは、悟りを得ることという考えです。

彼岸の仏教行事、彼岸会ひがんえは、インドや中国にはない、日本独自のものです。
その発祥は定かではありませんが、春分の日に太陽が真西に沈むことから、その彼方にある西方浄土さいほうじょうど(彼岸)を思ってのことか、あるいは昼夜の長さが一致する日を、生死の境目にある日、と考えたのかもしれません。

こうした行事に供えるのが「ぼたもち」です。
ぼたもちは「牡丹餅」と書き、牡丹の花咲く春のもの、「おはぎ(萩)」は、萩が咲く秋のもの、という話があります。ぼたもちとおはぎを区別している地域もありますし、年中おはぎ、というところもあって、捉え方は地域でさまざまですが、野や庭に咲く花を模して名付けるというのは、風雅なものです。

先日、ある団地を訪れました。和風の住宅があるかと思えば、キューブ風の住宅あり、ピンクの外壁があればライムグリーンもありの、我も我もと好き勝手にやった町並みです。いや、町並みとはとうてい言えない、「置いてある」というようなものでした。もっとも、こういう団地は全国津々浦々にありますので、さほど珍しいものではありませんが…。

庭らしい庭もほとんど見当たりません。街路樹もなく、木陰を探すのも一苦労、そんな状況です。

『おぼえていろよ おおきな木』(佐野 洋子)という絵本があります。

大きな木の陰に住んでいたおじさんの話です。

朝、木に小鳥がやってきてさえずります。おじさんは目が覚めてしまうと怒ります。
木陰でハンモックを吊って昼寝をしていると、毛虫が目の前に。
木の実がなると、子どもたちがそれを狙ってやってきます。
秋には落葉がたくさん落ちてきます。焼き芋をつくってもなお落ちてきます。
こんなぐあいに、おじさんは木をめぐってその都度怒り、木を蹴飛ばして「おぼえていろよ」と毒づくのですが、とうとう木を伐り倒してしまいます。

すると…。

春になったのがわからなかった。花が咲かなかったから。
朝になったのがわからなかった。小鳥の声がしなかったから。
お茶を入れたけれど、木陰がない。
ハンモックをつることができない。
実はならない。落葉もない。空が見えるだけ…。

失ってはじめて気がつくものがある、ということにおじさんは気づいて涙に暮れます。
この物語の結末には、一応の救いが設けられています。

けれど、最初からそういうものが一切無かったら。

先の団地を歩いてみても、窓の外には植物が見られず、植物がなければ虫も来ず、鳥も来ません。春の彼岸も秋の彼岸も、おそらく同じ風景が眼前に広がるのでしょう。いや、外なんか見ないのでしょうか。
もったいない。おおいにもったいない。春の躍動する庭を知らずに暮らすなんて!

文/びお編集部
※1:物事の始まり。いとぐち。手がかり。
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2009年03月26日・2015年03月21日の過去記事より再掲載)