ぐるり雑考

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フランスの公園の椅子

ぐるり雑考

25年ほど前、フランス中部の町を訪れた。保養地のようなところで中高年層の姿が多い。散歩をしていると、いつの間にか広い公園の中に。木陰に赤い椅子が見える。

ぐるり雑考 公園 椅子

歩いてゆくと、また椅子がある。

ぐるり雑考 公園 椅子

「現代美術ってわけじゃないし(笑)」となんだか愉快な気持ちで進んでゆくと、人が座っている椅子もあった。そうか、この公園の椅子は固定式じゃないんだ。スチール製で、程よく重い。

ぐるり雑考 公園 椅子
ぐるり雑考 公園 椅子

人のいない椅子は、時間の残像のよう。あるいはまだゴーストがいる感じ。この面白さはなんでしょう。

さらに奥へ進むと、そこはもう花畑さながら。おじいちゃんやおばあちゃんが好き好きに椅子を並べ、本を読み、語り合い、午後のひとときをすごしていた。

ぐるり雑考 公園 椅子

当時の日本は高齢化社会のとば口で、彼らの孤立を心配する声があり、一方で、納税された住宅街の土地が児童公園になる事例が生じていたと思う。いわゆる公園の三点セットが設置されるけど、子どもは減る見通し。逆に増えてゆく高齢者の日常を、親しく豊かなものにする視点も別段なく…といった状況を思い出しながら目の前の魅力的な情景を眺めていた。

そんな記憶を友人に話したら、東山魁夷の『コンコルド広場の椅子』という本の存在を教えてくれた。彼が67歳のパリ旅行で、広場に点在する椅子のたたずまいに惹かれて描き残したスケッチ集だという。
「そうか。フランスには他にもあるんだ!」とウェブで探してみると、コンコルド広場にもリュクサンブール公園にもあるわあるわ(動かせる椅子が)。

こうした情景は1760年、チェイルリー公園の管理人が数千脚の椅子を並べて始めたレンタル業に端を発するという。初期の都市公園は、そこへ行くこと自体が都市生活者のステイタスだったはずなので、椅子にお金を払ってもおかしくない。海水浴場でパラソル代を払う感覚(たぶん)。台頭していた中産階級の市民層は産業革命の進行とともに増え、公園もその役割や性格を変えて現在に至る。

25年前に話を戻すと、もっとも大切な情景として思い出すのは、寛いでいる大人の向こうで遊んでいた二人の女の子の姿だ。

ぐるり雑考 公園 椅子

日本の共空間(コモン)やパブリックスペースの社会的欠如をめぐる言説は、入会地の歴史、臆面なく進行する駅の商業化、思い通り進まない墓地の公園化、ぐるり雑考・第13回など挙げればきりがないが、空間以上に、それを運用するパブリックマインドの不足が課題だと思う。

その訓練は言語の獲得同様、何気ない日常的な時間の中で重ねられるはずで、彼女たちは公園で椅子を並べながら、この社会における身の振る舞い方を、学ぶともなく学んでいたんじゃないか。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、この社会の中に、自分たちの居場所を、自分たちでつくっていいんだということを。

でも現在日常化しているのはもっぱら「買物」的な訓練で、たくさんの選択肢の中から賢くて損のない正解を見つけて手に入れる筋力ばかり鍛え上げているように思う。子どもだけでなく、この社会を生きている私たち全員が。「じゃあどうしましょう」というとき、僕はこの公園を思い出すんです。そして考える。なにを〝何気ない日常的なもの〟にするといいのか。

*ぐるり雑考・第13回「わたしたちのみち」

著者について

西村佳哲

西村佳哲にしむら・よしあき
プランニング・ディレクター、働き方研究家
1964年東京都生まれ。リビングワールド代表。武蔵野美術大学卒。つくる・書く・教える、三種類の仕事をしている。建築分野を経て、ウェブサイトやミュージアム展示物、公共空間のメディアづくりなど、各種デザインプロジェクトの企画・制作ディレクションを重ねる。現在は、徳島県神山町で地域創生事業に関わる。京都工芸繊維大学 非常勤講師。

連載について

西村さんは、デザインの仕事をしながら、著書『自分の仕事をつくる』(晶文社)をはじめ多分野の方へのインタビューを通して、私たちが新しい世界と出会うチャンスを届けてくれています。それらから気づきをもらい、影響された方も多いと思います。西村さんは毎日どんな風景を見て、どんなことを考えているのだろう。そんな素朴な疑問を投げてみたところ、フォトエッセイの連載が始まりました。