びおの七十二候

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桃始笑・ももはじめてさく

啓蟄次候・桃始笑

桃の花は、春に五弁の花を咲かせ、夏には水分が多くて甘い果実を実らせます。
「桃の花」は春の季語。「桃の実」は秋の季語。
原産地は中国の黄河上流の高山地帯だそうです。ヨーロッパへは、シルクロードを通って、ペルシア経由で伝わりました。英名ピーチ(Peach)はペルシアが語源です。日本語の「もも」は、多くの実をつけることから「もも」とする説がありますが、「真実まみ」より転じたという説もあります。
中国では、桃の実は長寿を示す吉祥図案です。桃の実をかたどった練り餡入りの饅頭菓子の壽桃(ショウタオ、shòutáo)を祝い事の際に食べる習慣があります。
桃には邪気を祓う力があると考えられたからです。
『桃太郎』は桃から生まれた男児が鬼を退治する民話です。
3月3日の桃の節句は、桃の加護によって女の子の成長を祈ります。
きょうの句は、加賀かが千代女ちよじょ(1703年・元禄16年〜1775年・安永4年)の句です。生まれは松任まっとう(現白山市)、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれました。幼い頃から俳諧をたしなんでいたといいます。12歳にして地元の俳諧師岸弥左衛門や湊町本吉など開明的な俳人達に学び、17歳のときに松尾芭蕉の門人の一人である各務支考かがみしこうに「弟子にさせてください」と頼み込み、その才能を見出されて加賀の千代女の名前は全国に鳴り響きます。その時のをエピソードを、『千代女』という小説のなかで、太宰治が書いています。
「むかし加賀の千代女が、はじめてお師匠さんのところへ俳句を教わりに行った時、まず、ほととぎすという題で作って見よと言われ、早速さまざま作ってお師匠さんにお見せしたのだが、お師匠さんは、これでよろしいとはおっしゃらなかった、それでね、千代女は一晩ねむらずに考えて、ふと気が附いたら夜が明けていたので、何心なく、ほととぎす、ほととぎすとて明けにけり、と書いてお師匠さんにお見せしたら、千代女でかした! とはじめて褒められた」
千代女は、それから52歳で剃髪し、73歳で亡くなるまで1700余の句を残しました。
千代女の句として有名なのは、「起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな」という句ですが、この句は実は千代女の作ではなく、元禄時代に浮橋という遊女が詠んだ句とされます。
つまり、加賀の千代女の句というだけで名句と思わせるものがあり、そうして伝説は流布するのです。
千代女の句は、かくして江戸中期の俳句界のアイドルでしたが、その平易さが通俗的だという指摘があります。
しかし、女性らしい繊細さをどの句も秘めていて、たとえば、

青々と見えて根のある清水かな
秋の野や花となる草ならぬくさ
ゆふがほや物のかくれてうつくしき

などは、なかなか秀逸です。一番目の句は、清らかな湧き水を覗き込むと、木の根が見えたという句ですが、それをおもしろいと感じた千代女がそこにいます。二番目の句は、茫々とした草叢くさむらのなかに、花となる草とならぬ艸を見出していて、三番目の句は、物の陰にある夕顔を美しいといいます。

けふまでの日けふ捨てはつ桜

は、明けない夜はないというような句ですが、そのきっぱり感と清新さは通俗でない力を持っているように感じます。きょうの句、

春雨や土の笑いも野に余り

について大岡信は『第十折々のうた』のなかで、こう評しています。
『土の笑ひ』『野に余り』、いずれも工夫のある言葉遣いで、江戸時代俳人の語感の鋭さを思わせる。春の季語『山笑ふ』を、春雨の中でほっこり笑顔を見せる土の表情に転じた起点。『野に余り』は、その笑いが眼前の野からさらに大らかに拡がってゆく押さえ切れない勢いをとらえた表現である。北国の加賀にもようやく春が訪れたことを喜ぶ句である』
大岡信は、ちゃんと読んでいるなぁ、ということを感じ、だから『折々のうた』が、あんなにも長く朝日新聞紙上で続いたのだと合点が行きました。

文/びお編集部

啓蟄・春の土手

春の土手、ツクシ菜の花モンシロチョウ

啓蟄、虫が地面から這い出して活動を始める頃です。
「春の土手」なんとものどかな風景が目に浮かびます。

どての上ふと顔出せし犬ありけり 尾崎放哉ほうさい

飼い犬でしょうか。野良犬でしょうか。土手を歩いていたら、あるいは寝っ転がっていたら、ヌッと顔を出す犬。

川沿いの土手は散歩や遊び、休憩などの場として活用されています。けれど、本来は防災用の土木施設です。河川の水位があがっても、越水を防ぐことを目的につくられたものです。

古くから、治水は為政者いせいしゃ1にとって重要な仕事でした。
山梨県甲斐市の「信玄堤しんげんつつみ」のように、為政者の名前が冠された堤も遺されています。

治水だけでなく、土手は川の流れそのものを変えてしまうこともあります。
静岡市に流れる安倍川は、かつては家康の居城・駿府城のそばを流れていましたが、城下町への洪水を恐れた家康によって、堤防がつくられ、川の流れが変えられました。

静岡には、「安西」「安東」という地名があり、もともとは安倍川の東西を指していましたが、川の流れが変えられたことで、どちらも安倍川の東側になっています。
このときの堤防は、薩摩の島津藩の普請によるもので、薩摩土手と呼ばれています。

このように、土手というのは人工物に間違いありませんが、長い年月をかけて、自然豊かな小さな山に成長していきます。
時折入る草刈りが、地面に日光を届けることで、どこかから運ばれてきた植物の種子が芽を出します。植物があれば、虫がやってきます。水辺も近くにあります。人も当然集まってきます。

土手の魅力とはなんでしょうか。豊かな(二次)自然だけでなく、平坦ではない、ということも魅力のひとつです。

タレントのタモリは、街歩きの名人としても知られています。彼が副会長をつとめる日本坂道学会では、坂道のよさについて、「勾配」「湾曲」「歴史・景色・風情」「名前の由来」をあげています。

土手と坂道は違いますが、そこには紅梅があり、風景があり、川には歴史や名前の由来があります。啓蟄の候、春の土手に出かけて、生命や歴史を感じてみませんか。

文/びお編集部
※1:政治を行う者。為政家。
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2009年03月11日・2015年03月06日の過去記事より再掲載)