びおの七十二候

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魚上氷・うおこおりをいずる

立春末候・魚上氷

魚上氷とは、うおこおりをいずると読みますが、割れた氷の間から魚が飛び出るというのは、日本人には想像しがたいものがあります。中国古代の天文学に出てくる話だそうです。日本では、温かくなった水の中に、魚の姿が見え始める頃、と解した方がすっきりします。
魚上氷ではありませんが、氷下魚コマイという名前の魚はいます。血液中に、マイナスでも氷らない物質を持つ魚です。主に北海道で漁獲され、コマイ(あるいは寒海/カンカイ)の名で知られ、干物は骨まで食べられます。コマイはアイヌ語で「小さな音の出る魚」を意味します。漢字の氷下魚は、氷を割って漁獲(氷下待ち網漁)したことから付けられました。

きょうは、北原白秋が「黒衣の歌人」と呼んだ釈迢空しゃく ちょうくうの歌を紹介します。
釈迢空は、民俗学者折口信夫おりぐちしのぶとして知られ、この歌は、遠江と信州の国境いの西浦にしうれの集落に、民俗芸能(田楽能)を探索するために訪れた際に詠まれたものです。
西浦田楽能は、知る人ぞ知るものですが、何しろ辺鄙へんぴな場所にあり、泊まる場所もなく、寒い冬の夜を徹して舞われる祭りであることから、余程の思い入れがないと、まず行くことのない祭りです。
青崩峠あおくずれとうげを越えた遠山郷とおやまごうで開かれる霜月祭や、三河みかわ・信州・遠州えんしゅう(三信遠という)の国境周辺に分布する、新野にいのの雪祭り、阿南あなんの花祭り、坂部さかべの冬祭りなどは、比較的人寄りが得られますが、それでも西浦にしうれとなると「通」の人しか行かないといわれています。
西浦へは、今でこそ車道が通っていますが、折口信夫が来たとき(1920年・大正9)には、当然車道はありませんでした。国道152号線は、草木トンネルが開通したこともあり、今は西浦を通りますが、ついこの間までは池島という集落で行き止まりになる道しかありませんでした。池島から先は車道はなく、そこから青崩峠は歩いてしか行けませんでした。
折口信夫は、その青崩峠を越え、残雪の道を踏みしめてやってきました。このあたりには、柳田国男も来ていて、その記録を『東国古道とうごくこどう』に残していますが、柳田は西浦の田楽能を目当てにした行脚ではありませんでした。
西浦田楽能は、旧正月の18日(2月14日)から19日にかけて、西浦所能にある西浦観音堂で行われます。この観音堂は、西浦小学校の急斜面の坂道を登った中腹にあります。どの村にもある小さなお堂とさして変わりありませんが、しいて特徴を挙げると、立派な歌碑があることでしょうか。歌は、釈迢空の『海やまのあいだ』に収められている奥領家(西浦も含まれる)を詠った歌です。

あかりともさぬ村を行きたり。山かげの道あかりは つきあるらしも

歌碑の立派さと、寂寥感せきりょうかん※1漂う歌とそぐわない感じがします。奥領家を詠った歌は、ほかに、

山深くこもりて響く風のおと。夜の久しさを堪へなむと思ふ
山のうへに、かそけく人は住みにけり。道くだり来る心はなごめり

この歌で詠まれた西浦は、今もその通りのものがあって、少しも変わっていません。この祭り自体、中世の祭りの姿を、そのまま伝えているといわれ、賑やかな最近の祭りとは、祭りが始まる前の気配から違っています。

山峡やまかいの残雪の道を踏み来つるあゆみ久しと思うしずけさ

と、釈迢空が詠んだように、華やいだ気配がまるで感じられず、しずかです。たんたんと執り行われるという感じです。そのしずけさに、釈迢空は「あゆみ久し」と歴史の長さを感じたのでした。

西浦観音堂の境内から、向って正面の山に月が昇る頃、「南タイ」と呼ばれる松明に、まず火が燈されます。それと共に、単調な雅楽の太鼓と笛が鳴らされます。変化の乏しい所作の舞いが延々と繰り広げられます。地能は三十三番あって、雅楽の調べに合わせて、どれも単調なものです。
この祭りは、夜を徹して行われます。中世以前の人は、神は夜来ると考えていたからです。いよいよ寒さが増し、風が吹くと、燃やされる焚火の煙がこちらにやってきて、それが煙くてなりません。サムイ、ケムイ、ネムイを克服しないと、この祭りに参加できないといわれています。イヤでも眠気を誘われる雅楽の調べと、ゆっくりとした所作に心地よさを感じるようになったら一人前といわれます。

けれども、はね能(うる舞を入れて全部で13番)がはじまるころから、舞いの様相が段々と違ってきます。序破急じょはきゅう※2の、序から破へ、そして破から急転したかと思うと、事情は一変して、おおっ! と叫び声を挙げたくなります。それは、はげしさにおいて、狂気において、圧倒的な魂のほとばしりにおいて、野の祭り、町の祭りを凌ぐ世界へと転換するのです。飛び跳ねる舞い、その乱舞、それは山肌を駆け巡る狩猟民の身のこなしなのではないか、と思わせます。
眠気に耐え、身が凍るような寒さと、焚かれる薪から出る煙りに耐えたものだけが、大喜利、カタストロフィを迎えることができるのです。そして獅子舞が舞われ、しずめの各一番が舞われると、段々と夜が白み始めます。計47番の舞いです。

西浦の祭りもそうですが、三信遠国境の祭りの起源は、それぞれに由来があります。しかし、そこでいわれているよりもはるかに古い起源を持っているのではないか、というのがわたしの見立てです。
西浦田楽能は、都を流離りゅうりした田楽法師が持ち込んだものとされていて、田打ち・種まき・鳥追いなどの田楽が続きますが、それはこの祭りの一部に過ぎなくて、後半の面をつけての神々の遊びは、古代舞というしかなく、およそ田楽能から離れています。
西浦は、荘園しょうえん領主に直属する村から領家方とよばれています。そのことは荘園※3が成立する前から、ここが村として機能していたことを意味していたものと考えられます。
西浦の祭りに、山の神である天狗を祀る作法があります。これはおそらく山伏が持ち込んだものでしょう。現在の西浦の祭りを司るのは「別当」です。「別当」は神道系ではなく仏教語です。山伏が定着して「別当」になったのではないでしょうか。

折口信夫は『古代研究』の「追い書き」の中で、「其は、新しい国学を興す事である。合理化・近世化せられた古代信仰の、もとの姿を見ることである」と書いていますが、ここで折口がいう「古代」とは、日本史でいわれる古代とは異なります。日本史では主に大和朝廷・奈良朝・平安朝のそれぞれの時代を指しますが、折口信夫のいう「古代」とは、「民俗学の対象である民族の普遍の心意」というべきものでした。
折口信夫に「マレビト」という言葉があります。折口学を代表する言葉とされます。「マレビト」とは、「稀に来る人」をいいます。折口信夫は、「マレビト」の故郷として「常世とこよ」(他界)を想定し、そこから「マレビト」が訪れ、幸せをもたらすことに、古代信仰の根源を認めました。折口信夫が、詩人的直感によって「山峡の残雪の道を踏み来つるあゆみ久し」と感じた西浦の田楽祭りに、ぜひ、いらして下さい。日常との異化作用を存分に味わえますので。

町の工務店ネットの水﨑建築の水﨑隆司さんは、この西浦の東の山を幾つか越えた春野町気田けたの出身です。そこにも折口信夫は来ていて、春野中学校の校庭に釈迢空の歌碑が立っています。

気多川の さやけきみれは(ば) をち方の かじかのこえは しづけかりけり

入浴

湯船で一日のしめくくり
画/いざわ直子

まだ数十年の内風呂の歴史

立春大吉。新しい春の幕開けです。2月に入り、各地はまさに春が訪れたような陽気でしたが、寒気がもどってきたようです。
まだまだ寒さが続く中、一日の締めくくりの温かいお風呂は、まさに極楽の一言につきますね。
蛇口をひねればお湯が出てきて、いつでもお風呂に入れる。いまでは当たり前になった光景ですが、家庭に内風呂が備わるようになってから、まだ数十年しかたっていません。

公団住宅にすべて風呂がついたのは、1955年です。このころは、まだ内風呂があたりまえの時代ではありませんでした。公団が全戸風呂付きに踏み切ったあたりから内風呂の普及率はあがっていくようです。全国の住宅統計調査がはじまった1963年、ちょうど約半世紀前の時点で、内風呂の普及率は59%でした。55年時点で公団が全戸風呂付きに踏み切ったことは、その後の内風呂の一般化に大きく影響したのでしょう。

1955年の時点での公団住宅のお風呂は、木製・檜のお風呂でした。これは檜のいやし効果を狙った、などではおそらく無くて、風呂釜を量産する、という技術・体制が整っていなかったのでしょう。木製の風呂桶は1964年まで続き、その後ホーローの浴槽に切り替わります。
公団住宅は、全戸風呂付きに踏み切った他、「ダイニングキッチン」という概念を生み出したことで知られています。ダイニングキッチン、というのは和製英語で、まさに公団住宅のプランニングのなかから生まれた言葉です。ステンレスの流しも、公団住宅のために量産開発された画期的なものでした。
従来は北側にひっそりとあった台所が、食事をする場所でもあるダイニングキッチンとして南側に躍り出ることと、内風呂が標準装備になったこと。いまでは当たり前の2大水回り機能は、このころから始まったものでした。
これらが人気を博し、当時の公団住宅は、当選するには宝くじより難しい、と言われたほどでした。

風呂の歴史を紐解けば、かつての日本の風呂は熱気浴や蒸気浴をするための場所であり、お湯につかるものではありませんでした。お湯につかるタイプのものは湯殿ゆどのなどと呼ばれ、蒸気風呂とは別のものでした。お湯をふんだんにつかうタイプの風呂は、庶民には縁遠いものでしたが、江戸時代になると銭湯が現れます。庶民も家に小型の風呂を用意するようになったり、なかには風呂の出前があったりと、日本人の風呂(湯殿)好きはこのころすでにスタイルが出来上がっていたようです。
それ以前からも、日本では「けがれ」を嫌い沐浴をする風習や、火山大国故の温泉の質・量に恵まれた入浴の習慣はあったようです。

映画にもなった漫画「テルマエ・ロマエ」は、古代ローマ人がタイムスリップした現代の日本の風呂にインスパイアされて、古代ローマのテルマエ(公衆浴場)を整備していく、というものです。タイムスリップはともかく、古代ローマには浴場の遺跡も多く、ローマ人が風呂を愛していたのは間違いないようです。
しかし、ヨーロッパには長らく入浴の風習がありませんでした。公衆浴場は、本来の入浴の用途だけでなく、売春が行われたり、犯罪の温床として規制の対象になっていきます。また、燃料としての薪不足や、伝染病の流行などから、公衆浴場は廃れていき、ヨーロッパでは入浴をしないことが一般的になっていったのです。
こうした生活習慣から「下着」や「香水」といった、入浴しないことによる汚れや臭いをごまかすための発明が生まれていきます。その後、細菌の発見等の衛生概念の変化を経て、ヨーロッパの入浴習慣は復活していきます。こうした背景の人々から見れば、日本人は風呂好き、に見えるのは、むべなるかな。

風呂の持つ課題

入浴時の温度の急激な変化(ヒートショック)によって、血圧が旧変動して意識障害を起こし、溺れたり転倒したりという事故が多く起こっています。年間の入浴関連死は、交通事故死者を上回ると推計されています。防止策としては、浴室を暖めておくこと、熱いお湯に急激に入らないこと、家族がときおり声をかけることなどがあげられています。

内風呂が家庭に備わり、また炊事にもお湯が使われるようになり、家庭の消費エネルギーのうち、給湯は3割近くをしめるようになっています。このエネルギーをどれだけ抑えるか、ということも大きな課題です。給湯のエネルギーとは、ガスや電気、灯油などによって作られた熱エネルギーです。これらの熱エネルギーの多くは、そのエネルギーを持ったまま排水されていきます。
これらの排水の影響もあって、下水の温度は冬でも一定の暖かさをもっています。この下水の熱を利用して、暖房や給湯、地域熱源に使うという例もあるのですが、せっかく家庭で発生させた熱を、みすみす下水に流してしまうのは、なんともったいないことでしょうか。
排水の熱回収は住宅の分野では進んでいませんが、住宅の1/3を締めようというエネルギーのほとんどを、一瞬だけ使って捨ててしまっているということに、もう少し目を向けてもよさそうです。

文/びお編集部
※1:さびしく、わびしい様子。
※2:舞楽・能楽の構成形式。全曲を序・破・急の三部分に分ける。転じて、曲や舞の進行の速さの変化。
※3:公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地。
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2009年02月14日・2013年02月04日の過去記事より再掲載)