物語 郊外住宅の百年

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「眠れる谷」
レッチワースの土地買収

ハワードは事業を、レッチワースの近辺で農地を買収するための事業体となる、第一田園都市会社(FGC社)の設立をもって開始した。
この会社の株式募集額は20万ポンドだった。
翌年までに集まった認定株式は30万ポンドであり、出自を知っていれば、驚くばかりの集金力であるが、「明日本」に書かれていた目論見通りでなかった。公開市場での公募は、そう簡単なことではなかった。募集に際し提示した無配当、将来4%(後に5%に改定)の利子と株受け取りを保障する条件が壁になったのでは、と言われている。
しかしハワードは、そんなことに怯まず土地の買収に走った。このあたり、小林一三が箕面有馬電気軌道の鉄道敷設に先立って行った周辺土地の買収に似ている。結果を考えずにやったというより、結果を考えるいとまもなく、遮二無二に突き進んだということだろう。
買収の対象にした土地は、ロンドンの北約55キロメートル、人口50〜200人の寒村3ヶ所(教区パリッシュ)だった。教区は、キリスト教布教のための区域を指し、教区は課税権を持っていて、事実上、最少単位のコミュニティだった。
中心となったレッチワース教区は人口50人、ホテルもなく、郵便局すらなかった。
この教区の住人は、近郷の人たちからレッチワースが「眠れる谷」と呼ばれていることに誇りを持っていた。「眠れる〜」は、実力を秘めながら、十分に力を出しきっていないことを例える言葉である。
ハワードの計画で秀逸とされるのは、このレッチワースを選んだことだとされる。ロンドンに近いと周縁の町としか見られないし、遠いとロンドン郊外にならないという、ロンドンとの距離、位置関係も重要だけど、私にはレッチワースの教区と住人が持つ、一種独得の気高さがハワードの計画に乗り移ったように思われる。
イギリスにおける最少単位のコミュニティである教区教会は、イギリスの農家を襲った二次にわたる土地囲い込み(本連載vol.4に詳しく書いた)をめぐる苛烈な歴史を経験している。教区教会の建物は祈りの場であるとともに、痛苦の歴史を耐えた場所であった。教区住民の記録が保管され、村の墓地は農民戦士が眠っている。「眠れる谷」と呼ばれたレッチワースは、独立自営の精神を尊ぶ村であり、土地に刻まれた歴史は濃くて長い。ハワードは、そんなレッチワースに入り込んで、いうところの「地上げ」にあたり、そうして教区住民の信を得た。そうしてそれが、新生レッチワースでの事始め仕事となった。
ハワードが、3教区15人の地主から買収した土地の面積は3822エーカー(約46万坪)。買収価格は152,751ポンドだった。法的費用・雑費を加えるとエーカー(1エーカーは1224坪)あたり16万ポンド強である。この価格はハワードの当初の計画に近い買収額だった。もしお金にものを言わせたやり方だったら、レッチワースの住人は買収に応じただろうか。「眠れる谷」の誇りに叶う説得があり、彼らもまた、この谷の「明日」のために応じたのだった。
ハワードは、教区住民の信を得て開始したこの土地の開発計画を、レーモンド・アンウィンとバリー・パーカーの二人に依頼した。設計の内容をつまびらかにするのは先のことになるが、この二人だけでなく、計画の実現のために寄ってきた人たちは、誰も彼もが一級の人であり、レッチワースの取り組みは、天の時、地の利、人の輪を得て開始されたのである。
ハワードが描いた理想は、自立した職住近接型の都市だった。それは日本のニュータウンが、近隣に職場がほとんどない場所に住宅だけを建てたのと対照的なものだった。
計画人口は32,000人。中心部の近くに工場が置かれ、駅、商店、娯楽施設、緑地などが計画的に配置された。住宅はゆとりのある広さが確保され、外構コードにより設定された庭に建物を建てることは規制された。また、田園都市の中には広い農地があり、農産物の自給自足が促され、農地を住宅地に転用することも禁止された。
田園都市の周囲は、緑地帯(グリーンベルト)が取り囲んでいて、住宅地の無秩序拡大を防ぐ措置が取られた。日本では、その団地の人気が高いと、すぐ隣の土地の買収に乗り出すが、ハワードはニュータウンの秩序を保つには、自ずと適正な大きさが必要だとわかっていた。

レッチワースのランドアバウト

「田園郊外」と「私鉄郊外」の違い

日本の私鉄にとって、沿線土地の買収は、資本の原始蓄積を条件づける「玉手箱」となったが、強欲さが目立った。小林一三を範とし、その経営手法を踏襲した私鉄資本家は、欲の塊のような人たちばかりで、東急を引っ張った五島慶太は「強盗慶太」と呼ばれ、西武を創業した堤康次郎は「ピストル堤」と呼ばれた。彼らは競って土地の売買をテコにして、それぞれ王国を築いた。
土地を資本の原始蓄積の「玉手箱」にする手法は戦後へと引き継がれ、日本各地で熾烈な土地争奪戦を惹き起こした。なかでも「箱根山戦争」(1950年から1968年にかけて行われた西武・小田急とその背後にいる東急及び国際興業や横井英樹などが入り乱れての争奪戦)は、土地で財をなした紳士たちの素顔がモロに表に出た事件だった。それはやがて、稀代のジャーナリスト大宅壮一をして「一億総不動産屋」と言わしめた高度経済成長期の「土地神話」に向かい、その果てのバブル崩壊へとつながっている。
大都市圏郊外の街が、どのように開発され、形成されて行ったのか、その軌跡をたどると小林一三が始めたことに帰着する。
ターミナル駅ということでいえば、パリには中央駅はなく、パリ郊外に向かうには、6つのターミナル駅(北駅・東駅・リヨン駅・モンパルナス駅・サンラザール駅・オステルリッツ駅)に行かなければならない。リヨン駅に隣接しているベルシー駅を入れると7つになるが……。
ターミナルは、終点・ 終端・端末を意味する単語であり、複数の路線が乗り入れ、列車・バスなどの起点・終点となる駅をいう。けれども、それはもともとあった街と街を繋ぐためにできたものであって、何もないところに鉄道を敷設し、その沿線の土地を独占的に販売するような方法は、小林一三に始まるもので、似たようなものが外国にあるとしたら、それは小林一三の方法を真似たものである。
それ故か、日本の私鉄沿線の街は、都市計画的には「私鉄郊外」という独特の呼称がつけられている。都心ターミナルと辺鄙な地域を結ぶことから「都鄙電車」とも呼ばれている。
東京都心をターミナルにする東急・西武・東武・京成、名古屋の名鉄、大阪の阪急・阪神・京阪・近畿・南海、みな「私鉄郊外」住宅地を形成している。高速道路網が発達したこともあり、最近は「自動車郊外」住宅地が生まれているが、これらは都市住宅の外延化ということで括られよう。
 この基をつくった小林一三と、レッチワースのハワードとの違いは、敷いたレールが違っていたといえばそれまでであるが、百年を経て生じた差異の大きさに、私はしばし溜息をつくのである。