物語 郊外住宅の百年

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空前絶後のビジネスモデル
鉄道沿線の土地分譲

日本に導入された「田園都市」という概念

小林一三は、鉄道沿線の土地分譲にあたっては、サラリーマンにも購入できる価格帯を設定し、何と割賦販売で売り出した。頭金は売値の2割、残りは10年割賦だった。日本で初めて実行された「住宅ローン」である。
買収価格が安い分、割賦販売でも十分過ぎる利益が得られた。売れさえすれば、頭金が2割であっても、鉄道敷設のための資金繰りがつく。とにかく早期販売に限る。小林は知恵の限りを絞ったのだった。

小林一三

池田付近軌道敷設工事現場。明治42年(1909)頃


彼は、住宅地案内のために『如何なる土地を選ぶべきか如何なる家屋に住むべきか』というパンフレットを1909年に発行した。
「煙の大阪に住むよりも、健康的な風光明媚ふうこうめいびなミノ電沿線に」と打ち出し、文学の才能を発揮して、こんなコピーを綴ったのだった。

美しき水の都は昔の夢と消えて、
空暗き煙の都に住む不幸なる大阪市民諸君よ!
出生率十人に対し死亡率十一人強に当る、大阪市民の衛生状態に注意する諸君は、
慄然りつぜんとして都生活の心細さを感じ給ふべし、
同時に田園趣味に富める楽しき郊外生活をおもふの念や切なるべし。
家屋は諸君の城砦じょうさいにして安息所なり。
いにしえより衣食住といへど、実は住食衣というが自然の順序なるべし、
家庭の平和、人体の健康等、家屋の構造に原因すること少なしとせず、世人の家屋
に意を払うこと、切なる理ありというべきなり。

文中、「田園趣味に富める楽しき郊外生活をおもふの念や切なるべし」という箇所に見られるように、このコピーは明らかにハワードの「田園都市」からのパクリと見てよい。
これが書かれる2年前に、『田園都市』(内務省地方局有志編纂)が発行されている。レッチワースの「田園都市」は、当時の最新の西洋情報だった。小林がそれを読んでいないはずはなく、このコピーはその証左と見てよい。
ハワードの影響が、日本においてこんなふうに立ち現われたわけで、それはまた、ハワードの提案が煤煙スモッグに苦しむロンドンの住人に受け入れられたように、当時の関西地方のホワイトカラー層のこころに届くコピーだった。

「乗客は電車が創造する」ビジネスモデル

小林一三は、荒地の沿線土地を宅地開発し、住宅建築にも乗り出し、沿線人口が増加すると、路線の起点となる梅田駅にビルを建て、1階に東京から白木屋を誘致し、歩合制家賃で貸した。2階には直営の食堂をつくって、ソーライス(ソース・ライスの略。ウスターソースを米飯にかけた食べ物)を人気メニューに仕立て上げた。2・3階に「阪急マーケット」と称して日用品販売店も誘致した。
彼は現場に立って顧客のニーズをつかみ、これはイケルというものは自社に取り込み、新ターミナルビルの竣工に合わせて、直営の「阪急百貨店」を開店させた。日本で初めてのターミナルデパートである。目端が利くだけの知恵者というのではなく、これはいいと思ったら、すぐに実行した。

梅田駅

箕面有馬電気軌道創業当時の梅田駅

小林一三はまた、沿線に箕面動物園や、宝塚温泉、宝塚少女歌劇団、六甲山ホテル(現宝塚ホテル)など、鉄道をテコにした派生事業を次々と生み出した。「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」、「便利な場所なら、暖簾がなくとも乗客は集まる」といって、彼は「乗客は電車が創造する」というビジネスモデルを具現化した。やることなすこと、今につながるニュービジネスである。
空前絶後の勘働きを発揮して、一が二を生み、二が三を生むというふうで、やりたい放題の観があるけれど、事業発展の契機になったのは、何といっても沿線土地の開発分譲を行ったことだった。
土地で儲け、上物で儲け、住人が増えると商店街をつくり、その一番おいしいところは直営化し、濡れ手で泡のようにしておカネをつかみ取り、さらにそのおカネを次の土地買収に充ててビジネスを肥大化し、地域寡占化をはかったというのが、このビジネスモデルの全体である。
それは、始発駅から終点を点と線で結ぶ鉄道敷設ではなく、面や立体で捉え、カタチにしたビジネスモデルであり、世界に例のない独創的発明であった。夢を乗客に語りながらそろばんを弾き、黄金の日々を重ねることで、小林は、「土地本位制」の日本的経営を編み出したのである。
日本の私鉄資本は、この小林のパタンを忠実に踏襲することで、それぞれ資本の原始蓄積をはかった。そしてそれは日本の大都市のカタチを決め、日本の隅々にまで至る一極集中の流れを生むことになる。
沿線に造られた街は、こうしてベットタウン(寝に帰る街)と化したのである。都市の中の都市であるターミナル駅を起点とし、都市の外延化を点から面へと運んで行く手法は、結果において田園をスプロール化し、都市住宅の拡張郊外化を促した。渋谷からたまプラーザまで、路線距離 31.5 kmの東急田園都市線は、田園を言いながら、つまりは田園を消して行ったわけで、小林一三が自らペンを走らせた、「田園趣味に富める楽しき郊外生活をおもふの念や切なるべし」というコピーの、それが百年後の姿である。

小林一三の側近だった人が書いた本『小林一三 独創の経営——常識を打ち破った男の全研究』(三神良三著、PHP研究所)によると、小林はあまり笑わない人だったという。命令は正確にして辛辣しんらつ、こうと決めたら次々と手を打ち、機敏に動いた。
敗戦の年の9月、東京に出てきた小林一三は、有楽町界隈で米軍のジープを見て、一言「これは早いとこ自動車時代がくるな」と言ったそうだ。

百歩先の見えるものは狂人扱いされ、
五十歩先の見えるものは多くは犠牲者となる。
十歩先の見えるものが成功者で
現在を見得ぬものは、落伍者である。
小林一三『歌劇十曲』