小原屋商店・河合俊和さんの「のぼり鯉」

小原屋商店・河合俊和さんの「のぼり鯉」

河合俊和さんは、建築家であると同時に、慶長年間に創業した岐阜の小原屋商店 第13代店主でもあります。
美濃和紙ののぼり鯉を作っているのは全国でも河合さんだけ。
岐阜県の伝統工芸品として認定されています。

のぼり鯉をつくる河合さんのお話が、NHKの海外向け放送、「NHK WORLD-JAPAN」で放送されました。
下のリンクから動画が見られます。

Something special for the kids

The Kawai family is famed for making some of the most beautiful carp streamers in Japan.

NHK WORLD-JAPANさんの投稿 2022年5月5日木曜日

のぼり鯉はひとつひとつ手作業で制作しますから時間がかかります。
今年の端午の節句は過ぎてしまいましたが、来年用に、いかがですか。
住宅の竣工のお祝いにも喜ばれています。

小原屋商店
〒500-8029 岐阜市東材木町32
電話058-263-9894


のぼり鯉の話・再録

(2013年4月「びお」掲載分より抜粋)

五行思想は、古代中国の自然哲学の思想です。木火土金水の五つの要素で万物を捉える考え方です。

中国最古の歴史書、書経に登場し、木火土金水の「五気」それぞれの性質が記されています。
書経の記載では、五つの要素は「水火木金土」の順で記され、それぞれの性質として、水には「潤下(高いところから低いところに流れ潤す)」、火には「炎上(炎上、気が極まってあがる)」、木には「曲直(曲がり、また真っ直ぐになる)」、金には「従革(形が革まって器となる)」、土には「稼穡(万物を実らせる)」の説明があります。

このときはまだ、五行で重要となる「相克」「相生」の概念がありませんでした。
後に、それぞれの関係を示す「相克」「相生」の考えが生まれ、五行はただ並んでいるだけでなく、それぞれの関係、順番が重要とされました。

「相克」とは、五行それぞれの、相手に克つという関係を表します。
「木剋土」は、木が土の栄養を奪うこと。「土克水」は、土が水の流れをせき止めること。「水克火」は、水が火を消すこと。「火克金」は、火は金を溶かすこと。「金克木」は、金は木を切ること。
一方の「相生」は、逆に相手を生かすことです。
「木生火」は、木によって火がよく燃えること。「火生土」は、火から灰が生まれ土になること。「土生金」は、土から金属がとれること。「金生水」は、金属が冷えた時に水を生じること。「水生木」は、水によって木が育まれること。

「相生」の関係は隣り合うように配置され、「相克」は離れて配置されています。
そして、五行それぞれに色が定められています。

五気や五色の他にも、五行ではさまざまなものがこの五つにあてはめられています。方位「五方」や季節「五季」、食べ物の味の「五味」、そして人体の「五臓」など。
これらもそれぞれ、相克相生の関係にあるという考え方です。

五気
五色
五方 中央 西
五季 土用
五味
五臓

五色は古来正式な色とされ、貴人の正装に用いられました。古くからの料理の色もこの五色に配慮しているものがあります。おせち料理を眺めてみると、みなこの五色に分類できるのがわかります。

余談ですが、薬膳料理、というと、漢方薬のような薬味が入った料理、というような風潮もありますが、本来は五行思想にもとづき、五臓と五味、五色(これに加え、食材のもつ熱の特性をあらわした五性)などを創造的に考えた、相生を活かした料理なのです。
都の配置から建築、庭園まで、かつては五行思想に基づいて作られてきたものでした。

「鯉のぼり」も、こうして根付いてきた五行思想や、同じく中国からの故事による影響が色濃く現れています。
鯉が滝を登り切ると龍になる、という中国の故事「登竜門」にならって、鯉は縁起がよい魚とされてきました(登竜門の魚は、チョウザメだったようですが、いつのまにか鯉になってしまったようです。チョウザメのほうが、なるほど竜に似た顔付きです)。
そうした背景から、武家が端午の節供に鯉のぼりをあげるようになり、やがて庶民に普及していったと言われています。

鯉のぼりは、当初「幟(のぼり)」だったものが、やがて布製の吹流し型になりました。
色に注目するとわかるように、鯉のぼりにも「五色」が使われています。上の絵を見てみてください。鯉のぼりの色、そして吹流しの色は、すべてこの五色で構成されています。

紙で出来た「のぼり鯉」

金華山に建つ斎藤家の稲葉山城は、1567年に織田信長に打ち破られ、新たに岐阜城が築城されました。このとき町と城につけられた「岐阜」という名は、周の文王を輩出した「岐山」と、孔子の生地である「曲阜」から名付けられたものです。
信長が「天下布武」の印を使いはじめたのも岐阜に入ってからで、ここから天下統一への道が広がっていきます。

市や座といった利権を排除し、自由な交易を認めた楽市楽座もあり、金華山の麓、長良川周辺は材木や美濃和紙を扱う商家で栄えました。

信長の頃から時を経ることおよそ150年、享保年間。このころすでに、岐阜には布の鯉のぼりをあげる風習があったようですが、江戸幕府八代将軍・徳川吉宗による享保の改革で、布を使った鯉のぼりはぜいたく品であるとされ、代わりに紙を使用する旨のお触れが出されました。

ここから、岐阜の伝統工芸品である美濃和紙を使った「のぼり鯉」づくりがはじまりました。
鯉のぼり、ではなく、のぼり鯉、です。前者の「のぼり」は「幟」、後者の「のぼり」登竜門に由来する「のぼり」です。

建築家と伝統工芸

それからおよそ四百年。
現在、美濃和紙による「のぼり鯉」をつくっているのは、全国でただ一店、岐阜市東材木町の「小原屋」だけとなっています。

信長の時代から続いた町並みも、近代化が進み、商家はサラリーマン化していき、伝統工芸を継ぐ家は激減しました。地元の地銀・十六銀行も、かつては周辺商家のための支店を出していましたが、現在はその名残のATMだけが建っています。

東京で建築家をしていた河合さんは、亡くなった先代の跡を継ぎ(商売にならないから、継がなくていい、と言われていたそうですが)、伝統工芸を世に残していくことに決めました。拠点を岐阜に移し、建築家としての仕事と、伝統工芸の仕事を並行して行なっています。

この二つの仕事は、一見異質なものにも感じられますが、河合さんにとって、それは無関係なものではない、といいます。
建築ものぼり鯉も、時間をwrap(包む)するものであり、空間を考え、つくるものなのだ、と。

古い空間にあれば新しく、新しい空間にあれば古く見える。

ピンクや紫の鯉はない

のぼり鯉の材料は、手漉きの美濃和紙です。この紙に強度を与えるため手揉みし、同時に紙の風合いをだすために皺をつけ、型紙にそって切り抜きます。それを糊で貼り付けてから彩色します。

彩色後、乾燥中ののぼり鯉

1尾を仕上げるのにおよそ3日間。すべて手作りです。
玩具だからね、と河合さんは言いますが、いっぽうで、子どもの玩具だからこそ、心を込めてしっかり楽しく作らなければいけない、とも言います。

訪れた観光客が、ピンクの鯉が欲しい、紫の鯉が欲しい、ということがありますが、そういう注文は断っています。
先に述べたように、端午の節供の鯉は、五行思想に基づく色付けがされています。真鯉は黒、緋鯉は赤、子鯉の青も、すべて五色に含まれる色です。それぞれの色には、理由があるのです。

だから、のぼり鯉にはピンクや紫はないのです。