びおの珠玉記事

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「蚯蚓出」と「土を喰う日々」

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから珠玉記事を再掲載しました。
(2012年05月10日の過去記事より再掲載)

土

立夏の次候、蚯蚓出(みみずいずる)を迎えました。
みみずが地上に這い出てくるころとされています。

雨あがりに、みみずが這っているところを見かけます。
みみずはどうして、雨が降ると地上に出てくるのでしょうか。一説には、土中に雨水が入り呼吸がしづらくなることから地表に出てくる、と言われています。
みみずは、土壌形成に大きな役割を果たしています。みみずは、食べ物といっしょに土を食べ、粒状の糞を出します。これを繰り返し、土を団粒構造にして通気性を持たせ、また栄養も与えます。みみずがいる土は良い土、と言われる所以です。

進化論で知られるダーウィンの最後の著作は、1881年の「ミミズと土(The Formation of Vegetable Mould through the Action of Worms)」。ダーウィンは土壌に対してのみみずの働きを実証し、土はみみずの体を何度も通ってきたし、これからもそうだろう、と述べています。

しかし、この土に関して、私たちはあまりにも無関心ではないでしょうか。

四大元素と五大元素

古代ギリシャで考えられ、アリストテレスが継承した四大元素に「地水火風」があります。
また、古代中国に端を発する五行でも、万物は「木火土金水」の5つからなる、という説があります。
仏教では「五大」として「地水火風空」が、この世を構成する要素とされています。
これら全てに含まれている「土」。

身近なようでいて、現代人には縁遠い面もある土。毎日触っている人もいれば、しばらく土に触れてもいない、という人もいるでしょう。都会、とまでいかなくても、現代生活を送る上で、土に触れなくても生活が出来てしまいます。ともすれば、土のことなど忘れてしまうかもしれません。
しかし、それでいいのでしょうか。
古代の人が、世界を構成する要素にこぞってあげながらも、あまり関心が持たれて来なかった「土」。建築用材としても用いられますが、今回は「地面」を構成するものとしての「土」をテーマにします。

土とは何か

地球は水の惑星と言われています。生命の起源は海にあり、地球の表面の7割は海に覆われています。しかし、ここであえていいたいのは、地球は土の惑星である、ということです。
土は、単に鉱物の粉末ではありません。石が砕けたら土になるわけではないのです。
例えば畑の土なら、容積比でおよそ40%が固体、液体が30%、気体が30%です。固体も単一ではなく、有機物と無機物がまざりあっています。
土中にはたくさんの生物がいます。先に挙げたみみずだけでなく、モグラや昆虫、微生物など、大量の生物が生活しています。これらの生物が、土中の有機物を分解したり、撹拌したりすることで、土中は多様で肥沃になっているのです。

こうした「土」があるからこそ、地球には多くの植物が育ち、私たちが暮らしていけるのです。

文明と土

メソポタミア、エジプト、インダス、黄河の四大文明も、それぞれが大河にもたらされる肥沃な土壌にささえられた農耕文明でした。
これらの文明は農耕によって人口を支え、反映していきました。

土は、さまざまな有機物・無機物がまざり出来ているものです。植物は、根から土中の水分、栄養分を吸収します。また枯れた植物は土中の生物に分解され、土壌の材料となっていきます。
土が枯れる、という話があります。栄養分が少なくなることを差すことが多いのですが、これ以外にも、同じ作物を作り続けると起きる連作障害などが起こります。
こうしたことに知恵を絞らず、ただ作物を穫るだけの農業を繰り返すと、農地は徐々に耕作に適さなくなってしまいます。
過去に栄えた文明も、農地を失い滅んでいったという説があります。土は決して永遠のものではなく、使えば劣化し、あるいは減っていく資源なのです。

土と人間

日本は人口減に転じてしまいましたが、世界ではまだ人口は増え続けています。農耕地の面積は、すでに飽和に近く、人口増に追いついていません。飽食の国がありながら、世界的には食糧危機がいわれる背景です。
面積が増やせないことで、やせた土をさらにいじめるような悪循環が、現実のものになっています。
農作物の中には、工場栽培や水耕栽培もありますが、多くは土に根ざしたものですから、土の劣化は食料生産に大きく影響します。
本来は生態系の中にある土から収奪し、不足分を化学肥料で補うのが、現代の大規模農業です。
土と植物の供給能力から見ると、私たち人間の数が多すぎるのでしょうか。自ら食料をつくる力をなくしている現代人としては、その中の一人として、あまり勝手なことも言えません。

土を喰う

水上勉は、禅寺で身につけた精進料理の経験を通じて食をつづった「土を喰う日々」で

何もない台所から絞り出すことが精進だといったが、これは、つまり、いまのように、店頭へゆけば、何もかもが揃う時代とちがって、畑と相談してからきめられるものだった。ぼくが、精進料理とは、土を喰うものだと思ったのは、そのせいである。旬を喰うこととはつまり土を喰うことだろう。

と述べています。土があるから旬があるのです。

材料自体の甘味で勝負しているのだから、あとは土の力にゆだねるしかないだろう。それだけに台所のよこにある、わずか、三畝ばかりの畑は典座にとっては生命線といえる。木の葉を掃けばためておき、灰のあまりがあればためておき、雨あがりをよってそれらを畝のよこにしずませて、土を肥えさせる。これが直接、食膳とつながっているのである。

そして土の力を出来るだけ保ち引き出すための、人の関わり。そして土の力にゆだねる。土が私たちの食にどう関係しているか、短いながらも感銘を受ける一文です。

みみずは、直接土を食べて、よりよい土を生み出します。私たちはそんな土からの恵みを食べて、土に何を帰せるでしょうか。

雨で一息つこうと地上に出てきたみみずが、コンクリートの上で干上がっている姿を見かけることがあります。土は都市とは相容れないのでしょうか。
「コンクリートから人へ」なんていうキャッチフレーズがありました。干上がったみみずの立場からすれば、「コンクリートから土へ」といいたいことでしょう。それでもまだ、土中にみみずがいるうちは、救いがあるかもしれません。
「蚯蚓出」の今日、普段なかなか思い至らない「土の中」にも感謝してみましょう。