色、いろいろ。
冬木立
- 小
- 中
- 大

「冬木立」は、冬を代表する季語です。
葉が落ちて、寒々とした枝ばかりの光景が思い浮かびます。枯木立、冬木、寒林なども関連季語とされます。
蕪村の「斧入れて香におどろくや冬木立」という句が有名です。枯木と思って斧を打ち込んだら、つよい木の香りが漂っておどろいた、という句です。五七五のなかに、小宇宙が見事に映し出されています。
江戸天明期の俳人では、ほかに「冬木立月骨髄(こつずい)に入(いる)夜(よ)哉(かな)」(几董)「心しる僧と語らん冬木立」(ト千)などがよく知られています。
この季語は子規がよく好み、生涯、この季題で63首の句を詠んでいます。
(明治25年/1892年)
(明治26年)
(明治27年)
(明治28年)
(明治28年)
(明治32)
(明治34年/1901年)
明治25年は、子規が東大を退学し、母と妹を東京に呼び寄せ、日本新聞社に入社した年でした。月給は15円。同僚に三宅雪嶺、佐藤紅緑、長谷川如是閑などがいました。この年の冬木立の句には、子規の決意が見て取れます。
翌26年は、『日本』に俳句欄を設けた年でしたが、自身の身に血痰が襲った年でした。
翌27年は、上根岸82番地(陸羯南宅東隣)へ転居します。ここが子規、終生の住居となります。ということは、幾多の句と、『仰臥漫録』『病牀六尺』の舞台ともなります。
翌28年に、子規は日清戦争に従軍記者に赴きます。
翌29年は、左腰が腫れて臥床の日が多くなります。カリエスと診断されました。
翌30年には、松山で『ほとヽぎす』を創刊します。
そして明治33年に、大量喀血します。その前年に詠まれた「橋越えて淋しき道や冬木立」は、子規にその予感があったからでしょうか。
翌34年に、『仰臥漫録』を書き始めます。「冬木立色ある者はなかりけり」が詠まれた頃には「病気は表面にさしたる変動はないが次第に体が衰へて行くことは争はれぬ。膿の出る口は次第に増える。寝返りは次第にむずかしくなる。衰弱のため何もするのがいやでただぼんやりと寝て居るようなことが多い」(10月27日)と書きます。それでも食欲は衰えず、前日の食事を見ると「朝 粥に牛乳かけて三椀 佃煮 奈良漬 午 雉鍋 卵二つ 飯一椀 味噌汁 柿三つ 奈良漬 晩 雉肉たたき さしみ 柿など 夜 渋茶 ビスケット等」を食しています。
しかし、「次第に体が衰へて」いたのは動かせない事実で、翌35年、9月18日の朝から容態が悪化します。子規は、絶筆三句を詠みます。
その後昏睡し、19日午前1時に絶息が確認されました。
子規の冬木立の句は、子規の世界がひらかれ、子規の病気の進行と死への予感までが切り取られています。この季語は、どこか暗さが伴いますが、子規の句は暗さだけでない、この季語が持つ「力」がよく表現されていると思います。
さて、冬木立という季語から、わたしが想起するのは長塚節の小説『土』の冒頭の一節です。
烈しい西風が目に見えぬ大きな塊をごうつと打ちつけては又ごうつと打ちつけて皆痩こけた落葉木の林を一日苛め通した。木の枝は時々ひうひうと悲痛の響を立てゝ泣いた。
この一節は、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』や、藤村の『夜明け前』の冒頭の一節と並んで、俳優養成所の朗読のテキストとしてよく用いられます。ごうっとか、ひゅうひゅうとか、擬音語を用いることで、その光景が五感に響くところが、新人の朗読訓練にいいようです。擬音語の多用は宮澤賢治に通じますが・・・。
小説『土』は、夏目漱石の推薦により、明治43年6月13日から11月17日まで151回にわたり朝日新聞に連載されました。
漱石は単行本の序文に「先ず何よりも先に、是は到底余に書けるものではないと思った。次に今の文壇で長塚君を除いたら誰が書けるだろうと物色して見た。すると矢張誰にも書けさうにないといふ結論に達した。」と書いています。この小説は「観察文学」というべきもので、「土」に縛られた主人公勘次とその娘おつぎの生活は、「教育もなければ品格もなければ、ただ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同様に憐れな百姓の生活」(夏目漱石)です。
漱石は、この百姓の生活を「なんとシビアで美しいことなのか」といいます。想像を絶する農民の窮乏と、貧しさゆえに歪められた悲しい人間の姿が赤裸々に描かれています。『土』に描かれた農民の実体に、都会人の漱石は驚愕しました。
「余の娘が年頃になって、音楽会がどうだの、帝国座がどうだのと云い募る時分になったら、余は是非此「土」を読ましたいと思って居る。娘は屹度厭だというに違ない。より多くの興味を感ずる恋愛小説と取り換えて呉れというに違ない。けれども余は其時娘に向って、面白いから読めというのではない。苦しいから読めというのだと告げたい」
というのです。
小作人の生活を見つめ、単なる同情ではなく、ありのまま見つめる写生の確かさに、この小説の真骨頂があります。
長塚節は明治12年(1879)に生まれました。
子規は、慶応3年(1867)の生まれなので、長塚節より12歳年長です。子規にとって長塚節は「理想的愛子」だったと伊藤左千夫は書いていますが、子規は、自分より一回り若いこの弟子に、自分の遺志を継いでほしいと手紙を書いています。子規は、高浜虚子ではなく、河東碧梧桐でも、伊藤左千夫でもなく、長塚節に後継を期待したのです。
長塚節は、子規が『日本』に連載した『歌よみに與ふる書』を熟読し、写生を学び、投稿するようになります。その時、子規は32歳、長塚節は20歳でした。長塚が根岸庵に子規を初訪問したのは、その2年後、明治33年(1900)でした。子規が亡くなる2年前です。
子規は、長塚の「四月の末には京に上らむと思ひ設けしことのかなはずなりたれば心もだえてよめる歌」について、「萬葉の言葉を自由自在に駆使して一首の結びをつけた處は、他に一頭地を抜んでゝ居る」と激賞します。
長塚が『土』を朝日新聞に連載したのは、その10年後の明治43年(1910)でした。漱石が、長塚節の仕事を応援したのは、子規への友情ではなかったか、とする見方があります。子規も長塚節も早世します。子規は35歳、節は37歳で亡くなっています。しかし、子規が死生観として「命をたのしむ人」であったのに対し、長塚節の晩年は、喉頭結核に苦しめられ、転地療養するものの、肺患の疑いのある客は旅館を次から次に追われて歩くことになり、病む体で宿をもとめる旅を強いられ、切ないものでした。
藤沢周平に「小説 長塚節」という副題がついた『白き瓶』という小説がありますが、この歌について藤沢はこう書いています。
「縁談が進まないのは運命かもしれないとの諦観に、今訪れている初秋の季節のような淡いかすかな悲傷の思いだった。節は眼を挙げた。戸があいているので、ランプの光は庭まで落ちている。その庭に無数の虫の声がした。虫は部屋の中まで入り込んできて、見えない部屋の隅で、馬追いが澄んだ声を立てている。節は泣きふるえる馬追いのひげを感じ取った」
藤沢自身、肺結核にかかり生死の境をさまよった経験があり、長塚節の心中がよく表現されています。
藤沢の小説の題名は、この歌から採られました。それは長塚節のいのちの歌であり、藤沢の心につよく響いたのでした。
長塚節は、大正4年(1915)に没しました。享年37歳。戒名「顯節院秀嶽義文居士」。
『土』には、冬木立ちの描写は冒頭に続いて、後半にも出てきます。
「初冬の梢に慌しく渡ってそれから暫く騒いだままその後ははたと忘れていて稀に思い出したように枯木の枝を泣かせた西風が、雑木林の梢に白く連っている西の遠い山々の彼方に横臥(ね)ていたのが俄に自分の威力を逞しくすべき冬の季節が自分を捨てて去ったのに気がついて、吹くだけ吹かねば止められないその特性を発揮して毎日その特有な力が軽鬆な土を空に捲いた」
空にまき上げられる土というのは、ただ無闇に切ないですね。





2010/11/23(火)08:45
ハワイの黒蝶さん、コメントありがとうございます。今日、京都に行きますが、日本は紅葉の真っ盛りです。
次回は、冬の夜空です。ハワイの夜空とは、違うのでしょうね。
2010/11/23(火)04:54
「冬木立」という語感が好きです。
寒々とした平原にて、静かに佇む凛とした姿を思うと、自分もかく在りたいと願います。
(なのに、こんなハワイでぬくぬくとごめんなさい!)(爆笑)
若い時分に、短歌結社「水甕」に席を置いていたことがあるのですが、
子規の鋭い観察力は、いつも私の手本でした。
このようないきさつがあったのですね。
厳しい自然条件が伴う寒い場所や時には、多くの芸術が生まれると思います。
言葉も脳細胞も、研ぎ澄まされるからでしょうか?