奥村昭雄のデジタル・アーカイブ
奥村昭雄 立春大吉 47年間の年賀状
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奥村昭雄さんから、大きなトランク二つにいっぱいのスケッチ帖をお預かりし、それを次々と連載しようと張り切っていましたが、その量があまりに膨大であるため、整理とスキャニングに手間取っているあいだに、つい掲載が延びてしまいました。
最初の動機は、毎年、立春大吉に送られてくる年賀状を、まとめて掲載したらおもしろいのでは、ということでしたので、立春大吉が近づいてきて、ここで掲載しないといけないと思いました。ずいぶん間延びした連載で恐縮ですが、ご覧ください。
奥村昭雄さんは、練馬の中村橋に住んでいます。これまでに中村橋に何回訪ねたか分りません。もう随分前のことになりますが、ご一緒に海釣りに出掛けた時、大鯛を釣り上げられました。そのときは二匹も釣り上げられ、中村橋に凱旋した奥村さんは「中村橋には魚屋はいらないよ」と豪語し、得意満面でありました。その魚拓が事務所に貼られていました。
奥村さんとは、いろいろ議論してきましたが、議論は四方に飛びます。これは清家清さんも一緒でした。清家さんの場合は、話が四方どころか八方に飛んでしまいました。清家さんのインタビュー記事をまとめた人は、みんなそんな記憶を持っているようです。
奥村さんの場合は、自分の関心にしたがって、話が飛びました。けれど、こちらが質問したことを忘れたのではと思っていると、ちゃんと覚えていて、数時間あとになって「あれはね……」と話し出します。こちらはもう質問した内容を忘れていて、困ったことがありました。
年賀状のことが話題になったことがありました。宮脇檀さんの年賀状でした。
宮脇さんから毎年送られてくる年賀状は、その年の自分の記録、仕事やら旅の記録やらを、びっしりと細かく書き込んだものでした。奥村夫人(伴走者)のまことさんは、宮脇さんの年賀状を見ながら、「こんなこと毎年やっていると疲れて、どうかなっちゃうよ」と心配されました。こういう話題について奥村さんは、あまり喋りません。喋らないけれど、同意されていると感じました。少しだけ口を開けられ、何か言おうとされますが、また口を閉じられます。いわずもがなを口にされません。
宮脇さんの年賀状を話題にされたのは、宮脇さんが亡くなる5年ほど前のことでした。宮脇さんは、いつも忙しくしている人で、一緒に行ったヨーロッパは、15日間で7カ国を回るという旅でした。北のヘルシンキから、イギリス、フランス、スイスと回り、アルプスをゲーテが越えた道に沿ってバスで越え、深夜にミラノに入って、翌日にはベニスに入り、次いでアテネを訪ね、最後は地中海のミコノス島に渡りました。一回でヨーロッパを見て回る、という触れ込みの旅でした。この旅には、町の工務店ネットの仲間である、長岡の高田清太郎さんも参加されていました。
宮脇さんは、バスの一番前に坐り、マイクを持ち続けて、ヨーロッパの建築家を次々に俎上に載せ、あれやこれやひっきりなしに喋られました。宮脇さんはあらゆることに興味を持ち、いつも快活な人でした。
後年、ヨーロッパの南北を一日で縦断するとどんな体感を得られるかを知りたくて、ストックホルムからグラナダまで移動する旅をしたことがありますが、こういう関心の持ち方と、それをすぐに行動に移してしまうところは宮脇さんの影響かも知れません。その部分だけ取り出すと、忙しく自分を駆り立てる宮脇さんは、どこか自分に似ていると思っていました。多分、まことさんはそんなわたしの性癖を読み取り、それで宮脇さんの年賀状を話題にされたのかも知れません。
この夫妻の話題は、いつも批評性に富んでいて、他人の話だからと、一緒になって笑って喋っていると、実は自分のことを言っているのだと、ふと気づかされるのです。笑って喋り合う前に、話を咀嚼しなければと思うのですが、話がおもしろいので、ついうっかり乗ってしまいます。あの時の、あの話をもう少し自分に即して考えておけばよかった、と思うのですが、たいがい後の祭ですね。下手に乗ってしまって、これはまずかったということもありましたが……。
お正月に中村橋を訪問すると、立春大吉に向けて、いつも年賀状の案を作っておられたように思われます。実際には、もう少し後だったのかも知れませんが、多くの人からの年賀状に目を通した上で、やおら自分達の年賀状を準備するというふうで、賢いやり方だと思いました。ひと頃、奥村さんの周辺の建築家の多くは、このやり方に倣って立春大吉の年賀状を出しておられましたが、最近は“通常”のやり方に戻る方が増えました。
正月を開けると仕事が忙しくなり、年賀状を立春大吉に出すのは案外苦痛なのかも知れません。新年は、年を改めることであって、中国の風習が板についていないと、日本の正月から一カ月後に、もう一度自分を起動させるのはしんどいのです。奥村さんは、もうそれが習いになっているけれど、他の人は、格好いいからとニワカ仕込みでやっても身につかなかったのだと思います。
奥村さんの47年間の年賀状は、その年の干支をテーマにしたものもあれば、家族写真のものもありますが、その前年に突き詰めて取り組まれたことをビジュアルにされたものも幾つかあります。
その年賀状を見て、奥村さんのことをよく知っている人は、最近奥村さんはこんなことを考えているんだ、ということを知ります。樹形の科学や、気象データの解析や、海流や、完全魔方陣の話など、シロウトにとって、何がおもしろいのかというテーマを、奥村さんは、独自のアプローチで、丹念に、緻密に、弁証法的に究められたのでした。
中村橋を訪ねた人がそれを話題にすると、奥村さんは待っていましたとばかり、その詳細について話し出します。奥村さんは、愉しくてしようがないというふうでしたが、ぼくは横で見ていて、相手はそこまで興味を持っていないのになぁ、と思ったりしました。
上野の藝大で先生を勤めておられたときの傑作話も幾つもあります。
藝大の入学試験はスケッチを描いたりする課目があって、カンニングの心配がないので、監督教官は時間を持て余していたそうです。そこで奥村さんは、その教官のための試験問題を作って、みんなに配って退屈を救ったという話です。
そんな人が作ってきた、47年間の年賀状です。
建築家。1928年、東京都生まれ。1952年、東京美術学校建築科卒。同研究員として東京芸術大学改築計画担当。1956年、吉村順三設計事務所入所。1964年、東京芸術大学美術学部建築科助教授。1973年、同教授。木曽三岳村に板倉民家を再生しアトリエをつくる。1978年、木曽三岳木工所設立。現在、木曽三岳奥村設計所代表。東京芸術大学名誉教授。
代表的な建築作品に、星野山荘(1973年)、新田体育館(1983年)、阿品土谷病院(1987年)、関西学研都市展示館(1994年)など。著書に『奥村昭雄のディテール 空気・熱の動きをデザインする』(彰国社)、『暖炉づくりハンドブック』(建築資料研究社)、『パッシブデザインとOMソーラー』(建築資料研究社)、『木の家具作り』(INAXブックレット)、百の知恵双書004『時が刻むかたち』、同007『樹から生まれる家具』(農文協)などがある。
<捜しています、3枚の年賀状>
実は、1988年・1991年・1992年の3年分の年賀状だけが、奥村さんの手元に残っておられません。もしも保存されている方がありましたら、「びお」編集部まで、ぜひご一報を!
ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。

町の工務店ネットが制作した、一行日記「立春大吉」も今日からスタートです!
日々の暮らしの中にも、季節のうつろいを感じていただけたらと思います。日記スペースも上手く活用してくださいね!






















































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