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対州檜(たいしゅうひ)は使えるのか? 森里海連環学実践塾 in 対馬 レポート

沖の漁火
対馬一番のホールで入場者レコードを記録したシンポジウムの夜に、講師を務めたC.Wニコルさんや竹内典之京都大学名誉教授、扇対馬森林組合長、実践塾参加者たちと、宿舎のロビーに集って、夜遅くまで酒盛りのひとときを過ごしました。
シンポジウムの興奮覚めやらず、それが余韻となっての酒盛りでしたが、わたしには懸念があって、果たして対州檜はあるのか、あったとして使えるのか、ほんとうに対馬の森を蘇らせることはできるのか、との思いがつよく、歓びの感情が溢れるなかにあって、あたかも“広場の孤独”のような心境を囲っていたのでした。
というのは、これで三回目の対馬訪問となり、島中を走り回ったものの、ついぞ対州檜なるものを目にしたことがなかったからです。
翌日、対馬の林業家・佐護計理さんの森を訪ねることになっていましたが、実は前回、対馬森林組合の方に案内されて、佐護さんの森を少しだけ見ています。





放置され、あるいは皆伐され、切り捨て間伐された森に比べれば、佐護さんの森はよく管理され、明るい森でした。しかしながら、果たしてそれを対州檜と呼び得るのかどうか。もしあの森が対州檜の森だとすると、いわれるほどのものではない、というのが正直な感想でした。佐護さんの森の奥まで入れば、と思わないではありませんが、今回は大勢でバスに乗ってのツアー見学なので、時間の制約もあり、ムリだという諦めもありました。
その夜は、床に就いても寝付かれず、部屋の窓から沖のイカ釣り船の漁火を3時頃まで見ていました。
昨年の春は、富山湾のホタル烏賊の漁火を見に行きました。そのときは雨で、雨に身を打たれながら青白い漁火を見ていました。今回はホテルの暖房に身を包まれながらの、窓越しの漁火。安気なものでありますが、かえってこころの緊張はつよくなり、寒風の漁場の漁火と、これからの対馬の林業の険しさが重なって見えました。
同室者が目覚めてはならないと、音を消したテレビ画像を照明にしてパソコンを開き、いつもながらの夜半の仕事に向かいましたが、どうにも落ち着きません。それでも3時を過ぎて床に就きましたら、よほど疲れていたのか、うとうとと眠りにつきました。
目覚めて、ホールに降りて行きましたら、太平洋側から荘厳な日の出でした。それは見事なものでした。元旦以来のご来光だな、と思いながら朝食を取り、対馬北部に向けて出発しました。

北対馬、佐護さんの森へ
今日も、バスのお隣は竹内さんです。
窓から放置林を見ながら、竹内さんは、この日も晴れない気持ちでおられました。竹内さんの見立てでは、原生林の地質と同じ土壌だと考えると、土が浅く、浅いが故に育とうとして木は踏ん張り、また空中の湿度が低く、それらの条件を得て独得の性質を生んでいる点では対州檜も同じというものでした。
この竹内さんの見立ては、佐護さんの話、それから後に紹介する石井さんの話と符合するものでした。佐護さんは、全国の林業経営のなかで秀でた業績が認められ、林野庁長官賞を受賞されている対馬一の林業家です。
佐護さんによると、藩政時代の対馬は、林業に重きを置かなかった島だといいます。わたしが知るところでは、日本の美林といわれる地域は、だいたい300年とされます。それは享保の改革を行った将軍吉宗の植林施策を受けてのものでした。この施策を森の管理に結びつけたのが吉野、秋田、木曽などで、それらの森は今も残っています。これに対し対馬藩は植林に関心を持たず、明治以降植えられたものが対州檜と呼ばれるものになったのではないか、ということを佐護さんは言われました。まあそういうことだろう、と思いました。
続いての佐護さんの話は、かなり刺激的なものでした。佐護さんは対州檜と言われても、それを追ったのでは林業は成り立たない、と言われたのです。林業といえども、厳しいグローバル経済の中に巻き込まれており、われわれはそのなかで考えるしかなく、国の林野行政が一体何をやってくれたのだ、という憤懣を語られました。それは、この機会を待っていましたといわんばかりのもので、それは佐護さんの年来の思いであると理解できました。国は、あまりにも林業の現場を知らず、やらなくていいことばかりに税金を費やし、バカをやりおるという怒りに似た感情が溶岩になって、そこに噴出されました。
われわれは政府の人間ではないので、そんな感情をぶつけられても困るのですが、普段は穏やかであろう、端正な面持ちの佐護さんが、まなじりを決して怒りを露わにされることに琴線を揺すぶられました。
この話をお聞きしながら、わたしは南米チリの果てのプンタアレーナスの町で、アルパカのセーターが見つからず、町の洋品屋にあるセーターは中国産ばかりであったことを思い出しました。
マゼラン海峡に面した、四六時中、強い風に晒されるこの町で、ゴワゴワしたアルパカのセーターは衣服として最適なのですが、それが中国産の化繊のセーターに駆逐されてしまい、わずかに土産物屋に残されていただけでした。モノは低きに流れ、それは地の果てまでのものであることを思い知ったのですが、佐護さんの憤懣に、長らくアルパカを育てているパタゴニアの農夫のやり切れなさをみたのです。



各地の林家が、森を持て余し苦境に立っていることを、道を歩きながら、佐護さんはふと洩らされました。○○県の○○さんが破産したという話です。各地の代々の名家が背負い、強いられていることの重さと苦境を痛いほど感じました。
佐護さんの森は、ほかの対馬の森に比べて明るい森で、よく頑張っておられます。請われたら伐る、そのための製材所もある、と佐護さんは言います。つよい自負心を持ち、国にも、どこにも頼らない独立独歩の気概を感じはしましたがツラクも感じました。
参加者のなかに、佐護さんの話を聞きながら「大変なのはあなただけじゃない」という人がいました。零細林家は、なすすべなく森を放置していて、ほかに生活の糧を求めざるを得ません。林業がやれるのは、それ自体幸せなことだという人もいます。しかし、そんなことでいがみ合ってみても事態が好転するわけではありません。
この局面をどう突破するのか、それは協同・協働するほかないとわたしは思っていて、現に、オルターナティブなあり方が一方の世界として生まれており、公正貿易に奔走する人たちを知っているわたしは、対馬の林業を、新しいネットワークで蘇らせる道もあるのでは、と思われたのでした。
石井さんの対州檜
対馬で木材の仕事をされている石井弘康(有限会社 石井興産)さんは、シンポジウムでの対州檜の話を聞いて、「以前、四国や九州の業者が挙って、対州檜を買い漁り、裸山になった国有林での植樹作業を思い出した」と、わたしへのメールで書かれました。



上記掲載写真3点および冒頭写真 提供:有限会社石井興産
石井さんのメールによると、対州檜は国有林・民有林のほんの一部に残っていて、簡単に行ける場所にはない、といいます。過去に持て囃された対州檜は、安定供給できるほどの資源量は残念ながら無いというのです。
戦前の対馬にあって、杉檜の人工林は、薪炭確保の場でもありました。杉の小枝は、火付がよく焚き付けようとして集められたといいます。このため、枯枝は早めに幹から切り離されるので、人工的に枝打ちしなくても優良材が出来たと石井さんはいいます。殊に、明治中頃に植えられたものは、やせた土壌にもかかわらず、密に植栽され、それがやがて対州檜と呼ばれる木材質をカタチづくったのでは、といいます。
しかし、戦後拡大造林で植樹された対馬の檜は、苗木が入手し難く高価だったこともあり、また、痩せた土壌を気にしてなのか3000本/haの疎植でした。さらに、除間伐の保育施業の遅れから、中心の年輪は広く外周は狭い年輪の不均等が見られ、幾つかの試みもマイナス側に作用しました。そして、林業不調時代を迎え、放置せざるを得なくなった状況に陥り、現在に至っているようです。
石井さんは、4年前に数十本まとまった対州檜の原木を入手されましたが、それはやはり惚れ惚れする木で、百年を超える樹齢の対州檜は、その色艶といい、肌の張り具合といい見事なのものだったといいます。
石井さんによると、「いわゆる対州檜は、岩石交じりのやせた土壌で成長が遅いため、年輪が狭く、高樹齢でありながらも、大径木が少ない」といいます。「樹齢70年前後でも、4寸角が取れる大きさの割合が高く、製材したそれは無節材など役物が取れ、年輪がほぼ均等に育っているので、島外の業者に人気が高かった」そうです。
この石井さんの話は、竹内さんと話した対州檜と符合するものでした。
石井さんは、戦後植林の檜は「対馬ひのき」として、対州檜と区別します。「対馬ひのき」は、対州檜ほどではないけれど、痩せた土壌で育ったがゆえに、色艶が濃く年輪も堅く強い木だといいます。肥えた土地で育った内地の檜は、爪で押すと軽く傷がつくものがあるけれど、この点「対馬ひのき」は、爪を弾き、木肌が凛としているといいます。だから、対馬の大工は「対馬ひのき」を好むといいます。
100年の森へ
現在、対馬の材の多くは丸太のまま船で伊万里に送られています。それはそれで安定販売先になっていますが、材価は低く、これを続けているだけでは対馬の林業に将来はありません。
わたしはシンポジウムで、会場におられる島田林野庁長官を前に「林業再生プランで50%自給率にという案はいいけれど、数値だけが走り出す危険があり、現場は○○㎥出せと数字を追うことになりはしないか。50%自給率よりも、まず施業のための作業道をつくれ、そして豊かな森をつくろうということを一番目に言うべきではないか」と述べました。
対馬で進めるべき林業も、そういう方向のものだと確信するのですが、だからといって作業道を敷くだけで食えるのか、現場の苦労を知らないよそ者の言うことだと受け止める人が、少なからずおられたように思います。
わたしは対馬に入る前に、出雲の林業家・製材所・工務店と勉強会を持ち、その足で対馬へと向かいました。出雲の山は、戦後造林の時期が遅く、現在の木材不況を受けて青息吐息の状態でした。柱材は提供できても、梁材は出雲では出せません。木材市場があるので、工務店は梁材を調達できますが、それは他県のものです。このことは、有数の森林県である大分県でも同じで、大分の木材市場の実に50%は他県材で占められています。
出雲のメンバーは、県産材をいう以上、流通材だけに頼っていては何も育たないことに気づき、重ね(合わせ)梁による建築を思い立ちました。それでわたしに声が掛かり、構造家の山辺豊彦さん、システム構築の仕事をしている村田直子さんに声を掛け、出雲に同道戴いたのでした。
つまり出雲では、柱も、梁材も出雲材を用いて建てようというのです。重ね(合わせ)梁は、和風の建物を望む人には適していませんが、若い人に魅力を感じてもらえる木の空間を構造化できれば、大径木の梁材に比べコストも低く抑えられるので魅力なのでは、という目論見です。柱材だけなら、出雲で調達できる材を用いれば、樹齢が若くてもOKです。それを間伐利用しながら、残すべき木を残し、そうして長伐期の出雲の森をつくるというのです。
これは“並材”しかないけれど、森林率だけは高い地域にとって、唯一持ち得る選択肢だと、わたしは思っています。山を苛め、皆伐して、僅かばかりのお金を手にする愚を捨て、こころを奮い立たせ、ほんとうの林業に身を乗り出すべきで、今はそれをやるかどうかのターニングポイントに来ていると、わたしには思われるのです。国の「林業再生プラン」は、決して先進林業地だけのものであってはならないと思います。環境をいうなら、放置され、皆伐を選択している地域が問題なのですから。国家戦略室や林野庁は、ダメな地域を捨てるのではなく、やれる方法があることを明示することが肝要であり、その好例を何としても生み出してほしいと思います。そういう努力を傾けないで、あそこはダメな地域だと言っているだけでは、「林業再生プラン」は成就しないでしょう。
さて出雲に話を戻しますが、出雲には、出雲大社があります。
古代の出雲大社は巨大なものでした。失われたかたちを求めた大林組のバーチャルプロジェクト記録『古代出雲大社の復元』(学生社刊)によると、高さは16丈(48m)前面長さは1町(109m)の階段を持ち、高さは96mあったといいます。その巨大さゆえに、およそ30年に一回の割合で建物は倒れてしまったといいます。それで、とうとう鎌倉時代には、大きくなくても「神殿ハ神徳ニ非ズ」という御触れが出て、それ以降は仮設建設ということで現在に至っているという話です。
古代の出雲大社の構造については、本居宣長の『玉勝間』(岩波文庫)に記されていて、直径3mの柱を3本束ね、それを今の集成材のような発想で縦継ぎして建てられました。『玉勝間』の図を初めて目にしたとき、本居宣長のおもしろさを思いました。
この構造の発想は、どこか重ね(合わせ)梁による建築と重なります。そんな話を絡ませれば、ムクの一本材に拘るよりも、かえってカッコいいのでは、と出雲の人たちに申し上げました。そのときの出雲の人たちの晴れやかな顔が印象的でした。郷土を掘ると、一律解でない、何かがみえてきます。
要は、並材利用の知恵をどう発揮するかであり、日本各地の山は、およそそういう山ばかりです。「100年の森」を目指しながら、間伐そのものを林業にして行くことが、そういう地域が取るべき道です。
「対馬ひのき」の用途
そのように考えた場合、対州檜を蘇らせる「100年の森」まで、何で食い繋ぐかが対馬では問題となります。
ズバリそれは、「対馬ひのき」を土台に使えないか、というのがわたしの提案です。わたしの秘中の秘の提案で、ここで初めて披露します。
石井さんが言うように、戦後植林のものを対州檜というのは憚られます。それは将来のために取っておけばいいと思います。僅かに残された対州檜を発掘して整理し、シンボル的存在として、対馬を紹介する印刷物などに取り上げてもらい、対馬に、そのような木を育てる『対馬・100年の森構想』があることを構想として打ち出します。扇対馬森林組合長や財部対馬市長がシンポジウムで発表されたお話と重なりますが、林業は、長期展望を持つことが大事です。しかし、当面どうするかということを抜きにできません。実効性あっての将来です。
屋久杉に対し「小杉」があるように、その子どもとして「対馬ひのき」を、今使える材として押し出してはどうかと考えました。「対馬ひのき」は、竹内さんの見立て、石井さんの評価に見るように、土台として用いるのに最適の材といえます。
そのような材として思い起こすのは「能登ひば」です。
「能登ひば」は、江戸時代、北陸の大名加賀藩主の命により、当時持ち出し禁制とされていた青森ひばの苗を、隠密に持ち帰らせ奥能登に植林させたのが始まりといわれていますが、「能登はやさしや土までも」と言われるように、土が優しく、その柔らかい土に踏ん張って育ったのが「能登ひば」です。
それは痩せた石混じりの土で育った対州檜とどこか似ていないでしょうか。建築家の三澤康彦さんは、土台に「能登ひば」を用いています。「対馬ひのき」の木材質からして土台に最適ではないでしょうか。
現在、丸太のまま船で運んでいますが、土台については対馬で製材し、乾燥させて木材質を高め、「対馬ひのき」のラベル、産地タグをつけ、ブランド化してはいかがでしょう。柱も梁も、となると、すでに工務店は「近くの山」と提携しているところが多く、余程のことがないと切り替えてくれません。しかし、取っ掛かりとして土台に特化し使ってもらい、「対馬ひのき」の良さを知ってもらえば、他の材も、となるかも知れません。
土台の径なら、利用間伐でやれます。現に今ある材を「製品」に高めるのです。そのためにやるべき作業はたくさんありますが、具体的に動き出し、一つ一つ着実にこなして行けば何とかなります。
そうして残す木を残し「100年の森」へと向うのです。
六根清浄、お山は晴天。
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びお特集「対馬から”林業再生”を考える 森里海連環学実践塾in対馬レポート」
http://www.bionet.jp/2010/01/tsushima-morisatoumi1/
びお特集「玄界灘に浮かぶ対馬に、古代の森と、今の森を見に行く
[対馬紀行その一] 」
http://www.bionet.jp/2009/04/tsushima01/
びお特集「ニホンミツバチの島 [対馬紀行その二] 」
http://www.bionet.jp/2009/04/tsushima02/
びお特集「対馬の原生林に、日本列島の原郷を見た。」
http://www.bionet.jp/2009/10/tsushima03/



2010/2/2(火)12:10
ことうさん、ありがとうございます。地図など教えていただければ幸いです。わたしの個人メールアドレスは、
koike13@sosakujo.jp
です。よろしくお願いします。
2010/2/2(火)10:19
対州檜のイメージとして、100年を超えた檜の数十本以上の単位で構成されている森林であれば、上対馬町の県道近くであまり歩かなくて良いところに数箇所知っています。将来の対州檜の森のイメージの参考になるのかなと思います。
2010/2/1(月)20:12
対州檜がどのようなものか、これまで見たことがなく、わたしの中では幻の木でした。対馬の石井さんが、写真に撮っておられ、また自ら扱われていることを知り、「びお」に掲載していただきました。これが対州檜だといえるものです。対馬の山奥に何本かあるようですが、ツアーで行けるようなところではないようです。
わたしの望みは、この写真のような木を、対馬の人たちが100年掛けて育てることです。そういう第一歩を、今回の対馬のシンポジウムは記したのではないかと思っています。
2010/2/1(月)16:06
「びお」での対馬の記事は、もう何回目でしょうか。毎回、リキが入っていて、読み応えがあります。今回の対州檜の話は、こんな材が対馬にあったことが驚きです。対馬の今後に注目したいと思います。