花々舎の草花
大雪・鱖魚群(さけのうおむらがる) ウメモドキ
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庭のウメモドキが今年の夏を越すことなく枯れてしまいました。
すぐとなりにあった金木犀の勢いに負けてしまったのでしょうか。
秋から冬にかけて赤く熟した実を食べに来ていた小鳥たちが戸惑っていないか気がかりです。
そんな折、花屋さんでウメモドキを見つけました。
何につかうかを考えもせずに求めた一枝に椿の葉をあわせてみました。
そういえば庭のウメモドキを使っていけたことは一度もありません。
枯れてしまってからそんなことを思っても仕様がないですよね。

この歌は、柳田国男が宮崎県奥日向椎葉村を訪ねたときに詠まれたものです。
この夏、わたしは岩手遠野を訪ねて、遠野と柳田国男のことを「びお」に書きましたが、椎葉村は、柳田国男の初めの本、『後狩詞記』の舞台として知られる村です。椎葉村は耳川の源流の村で、その下流に諸塚村があり、この村の“産直住宅”のパンフレットを制作するため訪ね、この機会を逃してはなるものかと椎葉村を訪ねました。
わたしは、前に一度、諸塚村を訪ね、そのときのことは『住む』に連載していた『森里海ものがたり』第12回に書きましたが、椎葉村に思いを残して帰りました。柳田が名著『遠野物語』を書いたのは、『後狩詞記』を書いた2年後であり、この最初の本がなければ『遠野物語』は、なかったかも知れません。あるいは、仮に書かれていたとしても違ったものになったことでしょう。『後狩詞記』はそれほど重い本というだけでなく、日本民俗学の誕生を告げる記念すべき著書であって、椎葉村での体験が柳田国男を生んだといって過言ではありません。
柳田国男は、明治41(1908)年7月13日から18日まで、中瀬淳村長と7日間にわたり、椎葉山中の集落を探訪して歩きました。椎葉村は、今でも不便なところですが、当時は道らしい道はなく、登山道に近いものだったと思われます。柳田は、農商務省の役人として九州各地を視察したのでした。そして、この本が出た後、柳田は役人を辞めます。
「後狩詞記」の「序」に、柳田はこう記します。
「この序に少しく椎葉村の地理を言えば、阿蘇の火山から霧島の火山を見通した 間が、九州ではもっとも深い山地であるが、中央の山脈は北では東の豊後境へ 曲がり、南では西の肥薩へ曲がっている」
「村の大きさは壱岐よりはるかに大きく隠岐よりはるかに小さい。しかも村中に三反と続いた平地はなく、千余の人家はたいてい山腹を切りひらげて おのおのその敷地を構えている」
この「序」に続いて、「土地の名目」「狩詞」 「狩の作法」「色々の口伝」「狩之巻」の六項から構成されていて、当時の狩の様子を丹念に採集した本で、狩にまつわる独特の言葉や 風習、儀礼、作法などが記されています。
椎葉村を訪ねて、柳田が詠んだ歌は表題のほか、もう一つあります。
立ちかへり 又みみ川のみなかみに
いほりせん日は 夢ならでいつ
大雪「鱖魚群・さけのうおむらがる」
http://www.bionet.jp/2008/12/bio72_63/


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