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清流高津川のほとりに立つ、 築55年の家を、こんなふうに改築しました。
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外観(裏山から映した写真)
島根県の石見地方を流れる高津川は、清流日本一に選ばれた川です。
全長81キロ、津和野町、吉賀町、益田市の一市二町を流れます。流域面積は1080平方km。その91%を、森林が占めています。
高津川と、ほかの川を分けるのは、この川が源流から海に注ぐまで、一級河川で唯一ダムを持たず、多様な生命を宿し、育む川だということです。
この川だけが持つ“高津川色”があって、源流の色も、森の色も、草の色も、千枚田の色も、鮎の色もどこか違います。なかでも屋根の色が違っていて、赤い石見瓦の家が、この川のあちらこちらに点在し、津和野や、日原や、柿木村などは、その屋根が連なっています。
安野光雅さんの絵本から
津和野の出身である安野光雅さんは、津和野の風景を一冊の絵本『津和野』(岩崎書店刊)にまとめています。
この絵本には、喜時雨(地名です)の農家や、小鮒つりの川や、段々畑など、石見地域の原風景が独得の筆致で描かれています。表紙の絵は、光雅さんが「兎追いしかの山」と呼ぶ、青野山の林道から津和野の町を見下ろして描いた絵です。
光雅さんは、この本のなかの「故郷へゆく道」で、こう述べています。
「汽車は用心ぶかくゆっくりと、大きなカーブを描いて丘をくだっていった。カーブするたびに、下のほうにある町の家々や、街路や川や庭が、だんだん近くにはっきりしてきた。やがて、屋根屋根の見分けがつき、その中に、見おぼえのある屋根をさがし出すこともできた。まもなくまた、もう窓をかぞえたり、コウノトリの巣を見わけたりすることもできるようになった。そして、谷あいから、幼年時代や少年時代や数しれぬゆかしい故郷の思い出がわたしに向かって漂ってくるうちに、私の思いあがった帰郷感情と、あの下の町の人たちをあっと感嘆させてやろうという欲望とは、しだいに消えていって、感謝の驚きにかわった」
この文章は、「故郷へゆく道」のなかで括弧にくくられていて、実はヘルマン・ヘッセの『青春はうるわし』(関泰祐訳)の一節であることがあかされます。『車輪の下』などで知られるドイツの文学者です。
ヘッセが、故郷のカルプへ帰って行く物語を、光雅さんは津和野へ帰ることと重ねてこれを読んでいたのでした。
青野山の林道からの絵は、津和野が谷あいの町であることがよく分かる絵で、この谷を日原という町まで下ると、そこで柿木村などを流れてきた高津川と合流します。柿木村も、津和野と同じように、川の蛇行にあわせて集落ができていて、津和野と同じように、石見瓦の屋根が見られます。この屋根の連なりを、ある人は「日本のフィレンツェ」と称えたそうですが、フィレンツェほど古色に彩られてはいません。けれども、安野さんが心をこめて描いたように、誰もが残したい原風景であることは確かです。
しかし、この原風景は年々失われつつあります。
日本の中山間地が置かれた事情を反映して、この地域にも過疎化、高齢化の波が押し寄せ、家は維持できずに廃屋となり、一方、主要道沿いに禍々しい看板に色取られた建物が立ち並ぶようになり、高津川流域の町々は、かつての景観を変えつつあります。
柿木村の家
これではいけない、自分の家くらいは石見の家のよさを残したい、と考えた工務店がありました。柿木村の工務店リンケン(町の工務店ネットのメンバー)です。
リンケンは、新築を主体にして仕事をされている工務店ですが、社長の田村浩一さんは、築55年の自宅を壊して新築するのではなくて、改築することを思い立たれました。その家が冒頭の写真の家です。
屋根の向こうの小さな山に沿って高津川が流れ、家の前には畑がひろがり、家の背は、やはり小さな山になっていて、その山から流れる水が庭に置かれた甕に落水しています。庭全体に、その水音が心地よく響いています。それは、
「上(かみ)も、下(しも)も、どの家のまえにも小川が流れている。あるものは山から落ちる谷川の水を引く」(前掲所収「小鮒つりの川」より)
という光雅さんの記述そのものの世界であって、柿木村では、どの家でもこんなふうに水を引いたり、前を流れる小川の水を利用していることを知ると、この村が途方もなくゆたかな村に思えたのでした。そうして、この水が高津川へと注ぎこまれ、清流高津川を生んでいるのです。
この村を一緒に訪ねた天野礼子さんは、それは日本中の村落でみられた光景であって、かつて日本の川は、みんな清流だったといいます。小学校唱歌の『故郷』に歌われた「小鮒つりしかの川」は、まさにそのような光景を歌ったもので、日本人の多くがあの歌に郷愁を感じるのは、そういう世界があったからなのよ、と天野さんはいいます。
そのような目で今の河川を見てみると、人間が、いかに川を壊してきたかが分かります。コンクリートで川岸を固め、人為的に淵をなくし、川を堰き止めてダムをつくり、農薬や汚水を流しこみ、川を台無しにしてきたのです。高津川が清流だといわれるのは、そういうあり方から稀に逃れてきたからです。
しかし、昨年高津川は、清流日本一の称号を失いました。川は正直です。人の行いが、すぐに顔に現れます。
田村さんは、工務店を営みながら、清流高津川を取り戻す活動を繰り広げておられ、「清流高津川を育む木の家づくり協議会」の会長を務めています。実は、天野礼子さんも私も、この協議会の外部委員の一人として高津川流域の町々にやって来ていて、改築された田村さんの家に泊めてもらいました。
普通の家の再生
私は「町の工務店ネット」の代表であることから、職業柄、全国各地の住宅を見て回っています。そのほとんどは新築住宅で、改築建築を見ることはあまりありません。
田村さんの改築住宅には、正直驚きました。
有名な“再生建築”では、降幡廣信さんのものを幾つか見ていますが、それは残すに足りる古民家にとって有力な手法だとして、新築以上に予算が掛かることから、一般的な既存住宅に当て嵌まらない、と思っていました。
田村さんの家は、大きくてお蔵もあって、都市に住む者にとっては「素封家の家」に見えますが、このあたりではそうめずらしい家ではありません。建築費は、それなりに掛かっていますが、いわゆる「民家の再生」に要するような建築費でもありません。
私の驚きは、普通の家をこのように再生改築している、ということでした。
まず、改築前の家の写真と図面を見ていただきましょう。
改築前の写真と図面





この家には、改築前に訪ねていました。
田村さんの奥さんの徳子さんが亡くなられたお通夜に寄せていただきました。広島から車を走らせ、着いたときは夜でしたので、その全体はよく分かりませんでしたが、大きな農家住宅という印象を持ちました。続き間の座敷があって、奥に台所があるのか、そこから近所の方がお茶を運んでいました。
その家が、改築によってこのように変わりました。
改築後の写真と図面









これらの写真を見て、どんな印象を持たれましたか?
私は、最近の「自然派住宅」が持つ空間と、柔らかなテクスチャーをそこに見ました。あの家がこうなったのかと、改築による変化をつよく印象づけられました。
続き間は一室にされ、もう一室はリビングとキッチンで南北につながれ、北側を増築して大きな窓を設け、その窓の向こうにデッキがつくられました。リビングとキッチンスペースは、天井を取っ払って吹き抜け空間になり、とてもダイナミックな空間へと変化しました。田村さん自身の設計による改築再生建築です。
トラス構造の小屋組み
天井を取っ払って現れたのは、トラス (Truss) 構造の小屋組でした。
トラス構造は、鉄橋や塔に用いられる、部材の節点をピン接合し、三角形を基本にした骨組み構造をいいます。
私は、「清流高津川を育む木の家づくり協議会」の住宅部会を、あえてこの建物で開くことを提案しました。この住宅部会は、高津川流域の益田市・吉賀町・津和野町の一市二町を対象に住宅コンクールを開くことになっており、それを検討するための会合でしたが、この地域の新築戸数は年間120戸に過ぎません。私は、改築される建物も対象にしたいと考え、この建物での会合を提案したのでした。
集まっていただいた工務店と設計事務所のメンバーに、会合を開く前に、改築された建物をじっくり見てもらいました。空間の広がりに一様に興味が示され、続いてトラス構造に目が向けられました。民家の骨組み構造にトラスが用いられることは、このあたりでは見られないことだからです。
ある工務店が「田村さんのところは、昔、小学校の建築をなさっていたから、その廃材を利用したんじゃない?」と推理しました。こうした話題は、建築技術者の血湧き肉躍る話で、ひとしきり「トラスの謎」について話が咲きましたが、その真相は究明できませんでした。
55年前というと、1954(昭和29)年です。
この年は、ビキニ環礁で米国の水爆実験があり、日本の遠洋マグロ漁船第五福竜丸が死の灰を浴びる事件がありました。その年の暮れに、映画『ゴジラ』が公開され、水爆実験の影響でゴジラが蘇り、新橋、銀座一体が火の海と化し、海に消え、その影響で国会議事堂が崩壊し、日本政府は首都を大阪に移転するというストーリーでした。
現代文明に懐疑の目が向けられた年でありましたが、日本経済は徐々に復興し、各地の公共建築の建替えが進められた時代でもありました。おそらく柿木村でも、そんな動きがあったものと思われます。
この年は、田村浩一さんが生まれた年でもあって、その誕生を記念して建てられた住宅でした。トラス構造の小屋組みは、小学校の廃材利用ということもあるかも知れませんが、田村さんのお父さんの心意気が、びしびしと伝わってきます。それは、柿木村のモダンボーイである浩一さんに流れている血でもあるように思われたのでした。
石見瓦の景観を残したい
住宅部会の話に戻ります。
コンクールの対象に“改築”を加えることに、地元の建築家の万設計の篠原亨さんは、“我が意を得たり”という感じで賛成されました。
篠原さんによれば、「壊された古い家屋の後に建てられる住宅が問題で、小さな“洋風”の家が建てられると、これはもう目があてられない」ということでした。
ご多分にもれず、このあたりの経済も疲弊していて、新築される住宅は小さなものになりがちです。それはまた、最近の都市住宅の影響を受けて“洋風化”されます。篠原さんはそれを、石見瓦の景観にそぐわず、薄っぺらで情けない、といいます。
このようなことは全国的にみられる傾向で、今ではすっかり昔の景観を失ってしまったところが少なくありません。高津川流域でそれが問題になるのは、“景観”と呼び得る風景がまだ残っているからかも知れません。そんな話題さえのぼらない現実が、各地で進行しているからです。
けれども、住宅は個人財産であり、こちら側の思惑通りに運ぶものではありません。もし石見瓦の景観を残したいとしたら、それは住民自身の意思に基づくものでなければなりません。それには、薄っぺらな“洋風住宅”よりも、田村さんのような家の方が、ずっとステキだと思ってもらえるかどうかが決め手になります。
田村さんのような、よき事例を幾つも生み、それをコンクールの対象にして称揚し、流域住民の目が注がれて「わが家も!」ということになって、始めて“景観”をつくり出すことができるのです。
石見瓦の家々




この会合が開かれた午前中、わたしは流域の石見瓦の家を見て回りました。
篠原さんにご案内いただいたのが、写真の集落でした。最近の石見瓦は一色ですが、少し前までは斑(まだら)模様のものがあり、それが屋根に独得の陰影をつくり出していました。篠原さんも、田村さんも「これがいいんだ」と言います。そういえば、田村さんの改築の家は、屋根を葺き直したというのに、この瓦が用いられていました。
和瓦は、飛鳥時代に日本に入ってきましたが、石見(石州)瓦は、日本三大瓦の一つとされ、三州瓦、淡路瓦と並んで日本を代表する瓦となっています。
石見瓦は、白土(鉄分の含有量の少ない粘土)を原料としているので、高温で焼く事ができます。マイナス25℃にも耐えられる耐寒性を持ち、湿気を吸い込みにくく、大陸からの潮風・寒風を受けても耐えられる特徴を持っています。
「赤瓦」の色は、雲州地方(現在の島根県八束郡)で採れる石から抽出する釉薬を用いたことに始まります。明治期に入って来待釉を使ったものが作られ、登り窯での量産が可能になりました。
イタリア・ミラノ郊外の小さな町の試み
12月6日付の朝日新聞朝刊(東京版)に、『「新たな建物、一切ダメ」 環境保護訴え伊の市長が宣言』という記事が出ていました。イタリア・ミラノ郊外にある、人口1800人の町、カッシネッタ・ディ・ルガンニャーノ市での出来事を伝える記事です。
この自治体は、新たな建物の建築を一切認めない方針を決めたといいます。2002年に「環境の消耗にストップを」をスローガンに掲げて当選した市長によって、新規建築禁止が実現されたというのです。 市民の多くは農業や観光で生計を立てていますが、ミラノに勤めに出ています。 市民は、31歳のフィーニグエッラ市長候補が訴えた「環境は永遠のものではない。未来の世代や子供たちのために近代化をやめよう」という呼びかけに応え、圧倒的な支持を以て当選させました。この町では、新建築は認めない代わりに古い建物をリフォームすれば商店を出すことができるようにしました。それによって、大手建設業者は入り込めなくなり、大工や左官といった地元の職人たちは大忙しだと記事は伝えています。市長は「一度破壊された環境はつくり直すことはできない。しかし、市民が行動すれば変化は起きる」と話しているという話です。(朝日新聞南島信也記者の記事より)
この記事を読んだ私は、高津川流域の改築運動の提案に直結的につながり、この町のことが知りたくなり、ミラノのマンジャロッティの事務所におられた建築家の河合俊和さんに電話を掛けました。早速、河合さんは調べて下さり、この町がミラノから電車で30〜40分の距離にあることを教えてくれました。河合さんからのメールによれば、
ティツィーノ川沿いの町であること、ナビリオ運河(レオナルド・ダビンチによる)支流に面する町のようですね。なかなか奇麗な町ですね。イタリアの友人に資料を送って、調べてみます。
川向こうには Vigevanoヴィジェーバノ(ダビンチによる中央の広場、ブラマンテによる教会がある)という町があり広場に面するコロネード(Portico)が大変美しいところでもあります。私も何度か夏の夕涼みに出かけたことがあるところです。
ということでした。河合さんに教えられて、カッシネッタ・ディ・ルガンニャーノ市のホームページを見たら、こんな写真が掲載されていました。河合さんがいうように、とてもきれいな町のようです。
私は、マンジャロッティの事務所にいる河合さんの友人に、この町の事や、どんな条例が敷かれ、どんなふうに進められているかをレポートしてほしいと頼んでもらうことにしました。OKということになれば「びお」に掲載します。
朝日の新聞記事で読む限りでは、カッシネッタ・ディ・ルガンニャーノ市の取り組みは、とても刺激的でありますが、直ちにそのまま採用ということにならないでしょうが、日本が忘れてしまったものを、実際をもって示している点で、また、石見瓦の景観を残したいという意思を持つわれわれにとって、その発想から汲み取るものは決して少なくないと思います。
ミラノに出掛けた人は、ぜひ、この町を訪ねてください。そして「びお」にレポートしてください。
日本のクラインガルテン
石見瓦の家を改築して残すことに、多くの人は異論がないでしょうが、夫婦二人だけになった家では、その大きさを持て余すという問題があります。石見瓦の家は、家族の多い時代に建てられました。また農業・林業・漁業を営んでいたこともあり、家畜もいて、大きな構成を必要としていました。しかし、現在家族は分かれ、都市で生活する者も多くなり、夫婦二人だけの家が少なくありません。大きな家を改築しても、住む人がいなければ仕様がありません。
かといって、小さな家を建てるのは問題があるということになると、改築は、そう簡単なことではありません。
ドイツにクラインガルテンがあります。都市に住むドイツ人は、クラインガルテンに出掛けて行って週末農業を行います。ヨーロッパでは大都市であっても、都市から20〜30分車で走ると、すぐに郊外に出られます。日本の大都市ではそうはいきません。
しかし、大都市の広島から柿木村までは、1時間少しの距離です。日帰りで農業することも可能ですが、もし石見瓦の家の一部を間借りして、週末住宅にすることができればいいと思いませんか?
天野礼子さんは、来春に刊行される「有機農業」の本のために、今、取材を進めていますが、礼子さんは、柿木村にクラインガルテンをつくり、そこに木造の小屋のような別荘をたくさん造ろうといっています。新しく造られる「週末小屋」と共に、既存の住宅が上手に生かされるのは、とてもいいことだと礼子さんもいいます。
何といっても、柿木村は30年の有機農業の歴史を持っています。これが大きいと思います。まず柿木村の人から、有機農業の手ほどきを受けることが出来ます。そして、何かと相談に乗ってもらえます。柿木村の人たちとの人間関係も深まるでしょう。それは子どもたちの教育にも良き影響を生んでくれます。
柿木村の野菜は、今も広島に出荷されていますが、週末に自分で栽培した野菜を、月曜日の朝早く車に積んで、出勤することは可能です。そんなあり方を、養老孟司さんは現代の「参勤交代」と呼んでいます。来るところまで来た現代文明にあって、これからを考えると、それは一つの有効な処方箋といえます。
しかし、広島に住む個人と、柿木村の家を繫ぐのは容易ではありません。そこで村がそれをとりまとめてはいかがでしょうか。家賃のルールなどを取り決め、補助金が幾らか出れば応募する人は少なくない筈です。柿木村を気に入って住みたい人が現れるかも知れません。
イタリアのカッシネッタ・ディ・ルガンニャーノ市の取り組みを見ていると、そんな可能性が追求されていいのでは、と思いました。
田村さんの家のデッキ




田村さんの改築建築に戻ります。
柿木村の田村さんの改築で特徴的なのは、リビングとダイニングの窓に接した北側に、大きなデッキが設けられたことです。南側ではなく北側に、という点にポイントがあります。
北側の庭は、京都の寺院の庭によく見られる“順光の庭”です。
農家建築は、農業が太陽を好むこともあって、その向日性から南側に庭を設けるのが通例ですが、田村さんはあえて順光の庭になさりました。冬の間は、やや寒々としていますが、太陽の緯度があがる春になると、お日様がデッキを照らしてくれて、部屋からそれを楽しむことができます。これは田村さんが、建築と庭をよく知っている人だから出来たことかも知れません。普通はここまで思い切れませんので・・・。
この庭に5月になると決まって咲く花があります。ナニワノイバラという白い花です。一重で白く、黄色い花弁をつける、清楚な原種系のバラの花です。
ナニワノイバラは、古くから日本にあった薔薇のようで、どちらかというと、野ばらを大きく咲かせたような花です。この花が咲くと、庭がまるで日がさしたように明るくなるといいます。

この花は、田村さんの奥さんの徳子さんが植えた花です。
徳子さんは病気で52歳で亡くなられましたが、病気につよいこの花に、自分と家族の健康を願われたのだと思いました。徳子さんは亡くなられましたが、田村さんは、その命日の日に、毎年律儀に満開となって咲く花に、今も思いを寄せておられます。
デッキには、このナニワノイバラのほか、モッコウバラやクリスマスローズ、シュウメイギクなどの花が四季折々に咲きます。今「町の工務店ネット」では、各地の自生種の樹木や野草を植える取り組みを進めていますが、田村さんは、この庭で高津川流域の種を育てて、リンケンのユーザーに株分けをして行きたいと考えておられます。
家は、家族の歴史を記憶する
家は、言葉を喋りませんがが、人の生活を、家族の歴史を刻印しています。
かつて「柱の傷はおととしの、五月五日の背比べ」という歌が、多くの感懐を起こさせたのは、そうした記憶を家が刻んでいたからです。
石垣りんさんの詩に、こんな一節があります。
「家は古い 死んだ母親が住んでいる。どの新しいと呼ばれる家庭にも 母親がひとり。働き者で 料理好きで 掃除好きで 洗濯好きで」……。
ところが、この詩の後半に
「うっかりしていると みんな片付けられて その辺がせいせいしている」
という箇所があって、母の存在を、愛惜であると同時に酷薄であることを、この詩人は決して見逃しませんでした。
けれど、今の家はこの詩人が思った以上に、もっと簡単に「みんな片付けられて その辺がせいせいしている」のではないでしょうか。怖い話ですが、記憶を削ぐ「のっぺらお化け」のような家が増えているのです。
今の家はシミもキズもつかず、みんなピカピカ、ツルツルしていて、均質で無臭性で無機質な素材によって建てられています。刻まれるべき家族の歴史が、ぺろんと剥がれ、薄汚れてしまったビニールクロスではやり切れません。あっけらかんとして、まるでつかみ所がない。そこが「のっぺらお化け」の家といわれる理由になっているのです。
家は、長い時間を生きます。樹木がそうであるように、家は、人の寿命を超えて生きるものです。樹木はいっぺんには育ちません。家も、ゆっくり年をとります。ビニールクロスを貼った家と、土壁の家では年の取り方が違うのです。ビニールクロスの家は、竣工したときがピークです。年を追うごとにダメになります。それでいて、いつまでも新しい家だという顔をしたがる材料です。家は、建てた途端から段々古くなり、人の記憶を刻みます。ごく自然に、一緒に年をとれる家であればいいのです。
新築する場合にも、住んでいた柱や梁、建具などを、一本でもいいので遺すことをお勧めする次第です。
※最後の項は、私が執筆した『働く家』(OM出版刊)の一節を書き改めたものです。
文中の石垣りんさんの詩は、「表札など」より「母の顔」童話屋発行。
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森里海物語 島根県吉賀町柿木村 文・小池一三
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http://www.bionet.jp/2009/11/kyomi081/
マイルスくんが行く(マイルス社長のパラドックスな日々)「大改修」
http://rinken.exblog.jp/10553951/







2009/12/13(日)16:19
[...] ます。町の工務店ネット代表の小池一三氏が、田村さんの築55年という実家の改修工事について書いている記事を一度ご覧下さい。なかなか面白い記事です。http://www.bionet.jp/2009/12/kaichiku/ [...]
2009/12/13(日)09:52
学生の頃、安野光雅さんの「絵本」と出会い、とても温かみを感じる作風に好感をもっておりました。そして、この「改築計画」と「北庭」のお話からも、その場所に受け継がれていく、人間が本来持っている「心」をみたようなおもいがしました。僕のすむ地方も、過疎化がすすみ、人の住まなくなった家々を見受けます。こういった取り組みが少しずつ進むことによって、本当の地方復興につながるのではないかと、思いました。