花々舎の草花

小雪・朔風払葉(きたかぜこのはをはらう) ナンキンハゼ

2009年11月27日 金曜日
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ナンキンハゼ(南京黄櫨)
ナンキンハゼ(南京黄櫨)02

JRの駅に向かう途中に長い下り坂があり、この坂の両脇に南京ハゼの街路樹があります。

この木が一年中めまぐるしく姿を変えていることをご存知でしょうか?
春の新緑、夏の黄花、秋の紅葉、冬の白い実。
南京ハゼは「いつでも現在進行形よ」と言いながら活動する女性のようです。

とくに秋から冬への変貌は見事なもので、まるでマジックを見ているようです。
色鮮やかな紅葉の影で黒い殻を脱ぎ捨てた実は白一色となって枝先に連なります。
紅葉から一転、雪が舞い降りてきそうな眺めです。

旬の句

ナンキンハゼ(南京黄櫨)03

暮鳥とは、なんともまあ、寂しくて哀しい名前であることでしょう。
「芸術のない生活はたへられない。生活のない芸術もたへられない」と暮鳥はいいました。芸術なのか生活なのか、そんな難問を、真正面から自分にぶつけた詩人です。

善い詩人は詩をかざらず。
まことの農夫は田に溺れず。
これは田と詩ではない。詩と田ではない。田の詩ではない。詩の田ではない。詩が田ではない。田が詩ではない。田も詩ではない。詩も田ではない。
なんといはう。実に、田の田である。詩の詩である。
――芸術は表現であるといはれる。それはそれでいい。だが、ほんとうの芸術はそれだけではない。そこには、表現されたもの以外に何かがなくてはならない。これが大切な一事である。何か。すなはち宗教において愛や真実の行為に相対するところの信念で、それが何であるかは、信念の本質におけるとおなじく、はつきりとはいへない。それをある目的とか寓意とかに解されてはたいへんである。それのみが芸術をして真に芸術たらしめるものである。芸術における気稟の有無は、ひとへにそこにある。

と、暮鳥はいいます。『雲』という詩集の序に綴られたことばです。
序の次に

蝶々
ふかい ふかい なんともいへず 此処はどこだらう あ、蝶々

というのがあって、表題の「雲」が詠まれます。


丘の上で としよりと こどもと うつとりと雲を ながめてゐる

続いて「おなじく」と題して、10の詩が詠まれます。その頭の詩は、

おなじく おうい雲よ ゆうゆうと 馬鹿にのんきさうぢやないか どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか

序に綴られたことばは深刻な自己省察に向いていますが、詩は、透明に深く広がります。
この「おなじく」のあとの詩は、

あるとき
雲もまた自分のようだ 自分のように すっかり途方にくれているのだ 
あまりにあまりに広すぎる 涯のない蒼空なので おう老子よ こんなときだ にこにことして ひょっこりとでてきませんか

と、迷い迷いながら、虚空ともいえる哲学的な境地へと飛んでいき、暮鳥その人が姿を現すのです。


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立春といわれても、まだ冬だよ、といわれる寒波がこの列島を襲っています。けれど、日脚を見ると一日一日伸びていて、木々を見ると芽吹いていて、なるほど立春なのだ、春は立っているのだと思います。

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