特集
智頭の山へ、出雲の野へ 第6回森里海連環学実践塾の記録
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ー第6回「森里海連環学実践塾」顛末記ー
「実践塾」塾長 天野礼子

三人でようやく手がまわる慶長杉
ひさしぶりに「実践塾」を“開店”すると小池塾頭より連絡があり、喜びました。この数ヶ月、「町の工務店ネット」の皆さんは国土交通省の「地域住宅モデル普及推進事業」に応募され、そのめんどうをみてこられた小池さんは大変だったと思います。「18件もゲットしておめでとう」と、皆さんにお祝いも言えると思って、智頭へむかいました。
今回の「実践塾」の舞台である鳥取県智頭町は、私にとっては憧れの地でした。奈良県吉野・清光林業17代の岡橋清元氏と親しくさせていただき、世界で最も古いという500年の歴史の人工林・吉野で、岡橋氏が師の大橋慶三郎氏より「作業道」を伝授されて経営が助かっていることを様々に書いてきていましたが、その大橋氏の弟子が智頭にもご夫婦でいらっしゃることや、慶長年間(1596年〜1615年)に植えられたという杉がそこにはあることを、岡橋氏や2003年に「森里海連環学」を立ち上げた京大名誉教授の竹内典之先生から聞かされていたからです。
6月17日。昼食を食べながらの雑談の途中、町の方が私のところへ来て耳うちをされました。「天野先生がご希望されていると今聞きました慶長杉を見にゆくことはメニューに入っていませんでしたので、どうしても行かれるというなら、先生のお話を、30分から10分に短くしてもらえませんか?」
私が今回小池氏から塾長として依頼された講話は、皆さんとしばらくお会いしていなかった(小池氏の言によると、「森里海の会」は、閉店していたわけではありませんが、「休眠」していましたとのことでしたね)間に養老孟司氏と私が昨年7月に立ち上げた「日本に健全な森をつくり直す委員会」(俗称「養老委員会」)のことなどでした。
智頭が智頭である象徴ともいえる「慶長杉」を見にゆかないで何が「森里海実践塾」かと私は驚き、「もう話さなくてよいので行きましょう」とお断りしましたが、とりなされ20分、5月24日に島根県高津川流域で、「日本に健全な森をつくり直す委員会」と、リンケンの田村さんら「清流高津川を育む“木の家づくり”協議会」の皆さんとでくりひろげたシンポジウムが、1,000人を集め大盛会であったことなどをお伝えしました。
そして町長も同行して下さることになり、慶長杉を見にゆきました。「慶長杉」とは、慶長年間に植えられた樹齢約400年、最大周囲4m58㎝を含む26本のスギのことで、写真のように大人三人が両手を一杯にひろげてようやく届くような幹回り。吉野林業の500年(世界で一番古いという)の歴史には及ばないまでも、吉野の「樽丸林業」に学んで、年輪が緻密で、あざやかなピンクの美しい杉をつくることに何代もの努力が続けてこられてきて、今日があります。
しかし「優良大径木」経営では、現代の建築の要求には対応できず、近年は、苦労が続いているはずです。ですからこそ、全国の工務店の中でもピラミッドの頂点にいらっしゃる、知性の高い、今でも優良大径木として使いこなせる力量を持たれている今回の「森里海連環学実践塾」のメンバーには、もっとじっくり時間を取って、充分にこの地の「森里海」を味わってもらうべきであったと思います。
これは、地元のセットがまちがっていたのではなく、私を塾長と位置づけた、わが愛すべき塾頭の小池一三氏に責任があると思います。私には小池氏をしかる義務があり、小池氏には反省する権利がありますので、夕方の視察終了後のミーティングで、私はそのようにお話しました。
智頭には、家を建てる技術を持つ人々が見ておくべきところが、他にもたくさんあります。
慶長杉見学のあと、二ヶ所の木材団地を巡る予定の一行を尻目に、私は一人で、そして一行が出雲へ去ってしまった次の日も、「森里海連環学実践塾」を次のように実践しました。
「鳥取式作業道」見学
大橋慶三郎氏の弟子、赤堀(あかほり)完治さん澄江さんご夫婦がこの地では、自分の山や近所の人の山に「作業道」をつけてきています。赤堀氏の紹介で智頭でも大橋慶三郎氏もいくつかの道を造ってあげられていましたが、林野庁が「より安い作業路」として勧めている「四万十式」も学んだ鳥取県は、「鳥取式作業道」というものを自分たちで造られていると聞いていたので、町の大藤邦彦建設農林課主幹に無理をお願いして、一行が製材所を巡っている間に案内をしていただきました。作業道は、地質や土地の傾斜、水の有無をよく見て、「壊れにくいところに壊れないよう」に造ることが肝心。「鳥取式」は見せていただいた2ヶ所を見る限りでは、大橋氏の道づくりを各所で見てきた私には、少しイージィに造られすぎているのではないかと見えました。
石谷家住宅

石谷家住宅
私の宿「塩田屋旅館」は、この地で藩公が泊まられた時の宿となっていた、大庄屋で大山持ちでもあり、慶長杉の所有者でもある「石谷家」の立派な住居跡などが並ぶ一角にあり、その通り300mあまりの電線は地中化される努力がされていました。町の予算がたぶん少ない中でも美観に配慮している「心」を、とても美しいと思いました。
この家々の裏山も杉林ですが、そこには日本古来の「治水」の知恵が見えました。山の下方三分の一は、杉にせず、広葉樹のままにしてあるのです。雑木を燃料として使え、水際の治水にもなります。これが、古い林業地で見られる知恵の一つです。徳島県の那賀川流域の木頭杉の名産地でも見かけました。こういう知恵が残っている林産地を、歴史も踏まえてきちんと見ることが、本来の「実践塾」です。
赤堀家を訪問

赤堀さんの家
6月18日。私以外の皆さんは早朝より出雲へ向かわれましたが、私は残り、(株)サカモトの坂本トヨ子社長の案内で、赤堀邸を訪問。新しく茅が変えられたばかりのお宅を軒先だけ見せていただき、赤堀夫婦の造られた作業道を見に、山へ上りました。
このあたりは森林所有が小さく、赤堀さんが皆さんをまとめて、道つけを進められています。大橋先生や岡橋さんの道には及びませんが、昨日の「鳥取式」とは違う丁寧に造られた道でした。澄江さんが県の女性オペレーターたちとつけた道も、入口だけ見せていただきました。

赤堀澄江さんが、県の女性オペレーターと作業道をつけていた。
(株)サカモトを訪問

とても軽い杉の椅子
昨日の昼食前に町長のご案内で見せていただいた智頭町の保健・医療・福祉総合センター「ほのぼの」は、内装にたくさんの智頭杉が使われていましたが、中でも目をひいたのは(株)サカモトの木製カーテンなどの工夫でした。
大黒柱であったご主人を交通事故で亡くされた女性社長の坂本トヨ子さんの細やかな目を感じましたので、作品群を見せてもらいにショールームを訪問しました。
「杉の椅子」を見てください。とにかく軽いのです。他にも、昨日配られていたこの会社のカタログの作品群を見せていただきました。「町の工務店ネット」の皆さんがここを訪問されなかったことがとても残念です。皆さんのつくられる繊細な建築物にこそふさわしい杉の作品がありましたよ。
そもそも“森里海連環学”とは
「森里海連環学」は、2003年に京都大学フィールド科学教育研究センター長の、ヒラメの研究者・田中克さんと、副センター長で人工林の研究者・竹内典之さんの間で生まれた学問でした。
20世紀に人間たちは、発展のためにとさまざまなものを生み出した代わりに、たくさんの生物(いきもの)を殺し、自然を破壊してきました。
研究者は、それに手を貸した人も貸さなかった人も、自分の研究分野に閉じ篭っていました。そんな反省を込めてお二人は、「21世紀は20世紀と同じことをしてはいけない」、「失くしてしまった森と川と海の“つらなり”や“つながり”を、人間の手で取り戻さなければならない」と考えられたのです。そして最初は、「森川海連環学」と考えられたのですが、そうすると世間がこの新たな学問を「自然科学」と考えるかもしれない、この学問は、「社会科学」と「自然科学」が一緒になって考えてゆくべきテーマで、「里」に住み、多くの自然を破壊してきた「人間」こそが、いま理解し、使っていかなければならないと考えられたのです。そこで、「森里海連環学」と名づけられました。
私自身がこの学問を初めて知ったのは2004年秋でした。そしてそれを小池一三氏にお伝えしたのも・・・。
小池さんは、こうおっしゃいました。「日本林業の衰退を外材のせいだけのようにいいますが、外材8対国産材2のシェアの中で、日本の住宅の6割をつくっているのは、実は工務店なのです。日本の工務店が日本の木をきちんと使っていれば現状のシェア8対2はありえません。ですから、工務店こそが、この「森里海連環学」を学び、味方につけて、そして地域の消費者にもこの考え方を理解してもらうことが、いま必要と思うのです」、と。
04年秋より京都大学のこの「森里海連環学」を高知県に移入するために動いていた私を、7才年上の小池さんは、御自分たちの「森里海連環学実践塾」の塾長に任命され、御自分を塾頭とされて、05年4月に高知で最初の「森里海連環学実践塾」が実践されたのでした。その後、長野・黒姫、島根・柿木村、奈良・吉野、山形・金山と続き、今回、鳥取・智頭での実践となりました。
*高知を前に、東京・谷中にてこの予備校が開催され、これを含めて、今回が七回目となります。
“森里海”と林野庁
2006年12月に京都大学で行われた京大の「森里海連環学・第三回時計台対話集会」では、私がパネルディスカッション「林業が“生業(なりわい)”とよみがえることが、木文化を再生する」を司会して、小池さんや銘建工業の中島浩一郎社長がパネラーとなられ、それに先立って基調講演をされた林野庁の(当時・九州森林管理局長)山田壽夫氏(“新流通・加工システム”と“新生産システム”を予算化した強者)から、「林野庁は外材を使ってきた大手ハウスメーカーむけに二つのシステムをつくったが、“顔の見える木材”を使ってきて下さった工務店の皆さんにも必ず喜んでもらえるようにする」との発言を引き出しました。
この山田氏の意思は、国交省の長期優良住宅先導的モデル事業や地域住宅モデル普及推進事業などの国産材重視の流れに通じていて、実りを見せつつあるといってよいかと思います。
サケが森をつくる
私は、2000年までは川をテーマに行動していたのですが、2003年にカナダへ行き、「サケが森をつくっている」ことを体験してからは「森」もテーマにするようになりました。
カナダでは、秋の40日間に様々なサケが川を溯り産卵します。この時、クマは年間の食糧の4分の3をサケから獲り、冬眠に備えます。一頭のクマが700匹のサケを40日間の間に食べるのです。およそ18匹のサケを毎日食べるクマは、河原でなく、森の自分のテリトリーへ持って行って食べます。そうしないと河原で他のクマと戦争になるからです。おいしいところだけ食べて、あとは森の中にホッチャレすると、下位の動物たちが次々とおこぼれを頂戴し、最後はウジ虫たちが木の中にそれを自分の身体で持って入ります。
このようにして、サケが森の中の木の栄養となっていたことを、ビクトリア大学のトム・ライムヘン教授が、「N15(窒素15)」という同位体元素を、木の年輪から取り出して証明しました。
私は、このライムヘン教授の03年秋の調査に同行して、それを知りました。「N15」が含まれている年輪は、同水系のサケが溯っていない森の中の「N15」が含まれていない年輪に比べて太いのです。「サケが森をつくっている」と実感しました。
“森里海連環学”普及に動く
私が「森里海連環学」を知ったのは、カナダの森での体験の一年後でした。
サケが自らの身体で海の窒素「N15」を川へ運んで、それがクマによって森へ運ばれ、森の栄養になっていた。まさに、「森」と「川」と「海」がつらなり、つながって生きていることを、これが教えてくれています。そこで私は、高知県では高知新聞社に働きかけ、「自然に学ぶ“森里海連環学”」カルチャー教室をコーディネートし、4年になります。小池氏はこのカルチャー教室を見られて、「森里海連環学実践塾」を作られ、私を塾長とされたのだと思っています。
智頭の川と森
智頭には、千代川(せんだいがわ)という川が流れており、そこには毎年、サケが溯ってきて産卵を繰り返しています。
私はそれが、智頭の森が豊かであることと何か関係があるのではないかと考えていました。久しぶりに逢う「森里海連環学実践塾」の皆さんとは、そんなことを一晩か二晩、ゆっくり考えたり、討論がしたかったのです。
今回は残念でしたが、小池塾頭、もう一度しっかりと、智頭での「森里海連環学実践塾」を、そう遠くない日に組み立て直してはいかが?

「実践塾」塾頭 小池一三
蔵の町、倉吉
智頭(ちづ)では、天野塾長、お疲れさまでした。智頭町はじめ、智頭町の方々にお礼申し上げます。
さて、翌朝早く、智頭の山を下り倉吉の町に入りました。
智頭は因幡(いなば)の国、倉吉は伯耆(ほうき)の国です、同じ鳥取県でも、どこか空気が違います。移動のバスに揺られながら、何が違うのかを思っていて気づいたのは、伯耆では石見瓦の屋根が多いことでした。リンケンの田村さんが活躍される、益田の町と変わらないほど、石見瓦の屋根が多く見られました。

倉吉は、白壁土蔵の街として知られます。
町家群の屋根は、みんな石州瓦。土蔵群の建物は下部が焼杉板、上部が白壁です。その下を、涼しげな川が流れていました。吉田兼好の『徒然草』に、深き水の流れに涼しさはない、はるかに涼しく映るのは浅い水の流れだという言葉がありますが、あれですね。
小石が川から顔を出すほどの浅瀬があって、耳を澄ますと水の音が、サラサラと聴こえました。工務店が汲むべきは、水に対するこの繊細さですね。現存する古町家は約100棟とのこと。
この歴史的街区から少し離れたところに、シーザー・ペリ設計による倉吉パークスクエアが建てられています。この機会にと、そちらにも足を延ばしました。
シーザー・ペリの設計に特有の、曲線を描くファサードはこの建築においても見られました。ただいつもの金属素材でなく、集成材利用という点に大きな違いが見られました。集成材は、岡山県勝山にある銘建工業で制作されました。

この大断面集成材によるアトリウム建築は、倉吉の新名所になっています。
冬の倉吉は、どんより曇った日が続きます。このアトリウムに、一丈の光さえも取り込もうという、この地の人たちの意思のようなものを感じました。雨の多い日本では、メンテナンスが大変だろうな、と思いました。
斐川の築地松の家
倉吉から出雲までは200キロ程度あります。バスで長躯の旅でしたが、行き帰りの交通の事情等により、バスの後ろを三台の自家用車が追い掛けました。三重・せこ住研の世古欽史さん、岡山・塚本ハウジングの塚本晋也さん、山口・カネイの金田周太郎さんの車です。駐車するたびに、ヨッ!という感じで、再会の愉しみがありました。
出雲では斐川の築地松の散居を訪ねました。
斐伊川は土地よりも高く川が流れる天上川で、斐川は、水害の被害にしばしば襲われ、地盤が軟弱で地震に弱い地域です。それで屋敷林に黒松を植え、その根を張らせることで「人工地盤」をつくり、その上にこの地の人たちは、分散的な散居を造ってきたのでした。


今回、案内を務めてくださった瀬崎勝正さんは、築地松案内人として登録され、この日が最初の案内の日でした。緊張されて、それが初々しかったです。役場と新聞記者が来ていました。ご紹介いただいた家は、瀬崎さんご自身の家なので、一本一本に至る黒松の生い立ちや、陰手刈(のうてごり)などについて、くわしくお話していただけました。
陰手刈とは、4〜5年に一回行われる築地松の剪定作業をいいます。
この手入れを怠ると、上の枝だけが成長してしまい、枝が四方に広がってしまいます。そうすると日陰が生じて、幹の下が日光不足に陥り枯死してしまうのです。陰手(のうて)とは、築地松が日陰になる部分を指し、そこを刈ることを言います。築地松を美しく保つことが、この黒松の効用を高めるのです。
そのことは、唐突なもの言いですが、智頭の山の話と重なる話だと思いました。
どうしょうもなく暗くて、下草茫々の山よりも、よく枝打ちされ、間伐された美しい山の方が、伐られる木材質が、断然いいわけですので・・・。
散居については、この春に富山の砺波(となみ)平野に行きました。
砺波は、松ではなく杉を中心に、食料になる柿・栗・梅などの果樹が植えられ、それは「カイニョ」(垣根が転じた言葉)と呼ばれ、砺波では「高(土地)は売ってもカイニョは売るな」という言い伝えがあると聞きました。砺波の散居は、おそらく日本中で一番立派な独立住宅ではないかと感銘を受けました。
これに対し、夏の斐川はどんなふうかと期待して訪問しましたが、それは期待にたがわず美しいものでした。バスの窓からみた斐川は、田という田に水が引かれていて、建物がまるで浮島のように見えました。山と同じように、野もお手入れがものをいうのですね。
斐伊川は豪雨に見舞われて、古来、しばしば氾濫したといいます。地中深く松の根が張ることで、その氾濫に耐え抜き、冬の強い季節風にも、また火事にも耐え抜いて、瀬崎さんの先祖たちは、営々としてこの屋敷林を保持してきたのです。
工務店は建築屋なので、外構工事を軽く考えがちですが、屋敷囲いは冬の季節風に対するバッファーゾーンの役割を持っていて、住まいの温熱環境を考える場合にも、エクステリアを頭に入れて設計するのとしないとでは、大きく違ってくる筈です。斐川の築地松は、軟弱な地盤対策にもなっていて、パッシブな建築手法の代表的な例と言ってよいと思います。これを見たことで、大きなヒントを与えられたと思います。
斐川の築地松は、これまで外側からだけ見ていましたが、今回、内側からじっくり見る機会を与えられました。これがよかったですね。外側から見るのと、内側から見るのとでは、まるで表情が違います。それに驚きました。
外側からはレースのカーテンのように、華奢ですらありますが、内側に回って見ると、樹齢150年の黒松の風格があって、歴史の厚み・重みということを感じました。
永田昌民が設計した最新の家
斐川の築地松見学の後、平田町で永田昌民さんが設計された建物を見学しました。ぼく自身は二回目の見学でした。永田さんも駆けつけられ、永田さんの解説つきの見学で、とても中身の濃い見学会になりました。前に寄せていただいたとき、「びお」で特集を組みましたので、そのときの記事を読んでください。
特集
永田昌民さんの一番あたらしい仕事
http://www.bionet.jp/2009/04/nagata/
今回は、地元の設計者も大勢参加されて、とてもいい見学会になりました。
密かに撮った写真を載せさせておきます。


平田は、木綿街道の町家群

永田さん設計の家見学の後、木綿街道といわれる平田の古い町並みを訪ねました。
案内は、島根県建築士会の石川良一さん(石川建築設計事務所)に務めていただきました。石川さんの説明では、この町は、北に日本海、東に宍道湖があり、水路に恵まれて、古くから商家の荷を運ぶ市場町として栄えたということです。
この町に関する記述は、「出雲国風土記」 に爾多郷(沼田郷)として記されていて、近世になって市場町として栄える前も、豊かな水があり、稲作に適した地であったことが分かります。早くから商人たちが目に付け、出雲一円の北前船の基地として多くの船が往来する湊町でしたが、江戸末期から明治初期にかけては、「平田木綿」で名を馳せ、大阪や京都で良質の木綿として評判を取り、船川周辺は木綿の一大集散地となりました。
そんなわけで、この町の街道筋は「木綿街道」と呼ばれるようになりました。

木綿街道 momenkaidou「木綿街道の歴史」
http://momen-kaidou.jp/?m=wp&WID=3366より
この町を訪れて感じたことは、船川に面した水辺の空間に固有性が見られたことでした。「岡屋小路」とか「出しの小路」などの名前がつけられています。川面に張り出した船着場や、「掛け出し」と呼ばれる洗濯場のあとが、あちらこちらに見られました。
わたしが撮った写真は、岡屋小路から川に通じた掛け出しで、呉服店の建物をくり貫かれてトンネル状になっていました。そこを心地よい涼風が、さぁーっと吹き抜けていました。暗い路地があって、その先に川面がきらりと光っていて、この光と影の明暗がよかったですね。


各戸の格子の表情も良く、格子に花が飾られていて、この町の人たちのもてなしの気持ちを感じました。そのことは、再生建築された一軒の家を見せていただいて納得が行きました。雑巾で磨かれた材や、お手入れされた座敷が持つ美しさというものを、久しぶりに味わいました。いつ、だれが来てもいいように、普段からしっかりお手入れしているのですね。メンテナンスフリーをいうのは、恥ずかしいことだと思いました。
町家論
今回の旅は、趙海光(ちょううみひこ)さんがまとめられた「現代町家」を進めていて、そもそも町家とは何なのかについて文献を漁っていた時期と重なりました。木綿街道の町家は、決定的といっていい認識を、わたしに与えてくれました。
建築史の大家である太田博太郎博士の本に、民家は、農家と漁家と町家に分類されると記されていましたが、そうはいわれても、町家というと、京町家や飛騨高山の豪壮な町家をイメージしがちです。
しかし、この分類法で行くと、今回の平田は明らかに町家なのですね。上田篤さんの「接道・接隣・接地」の定義からいっても、町家以外の何ものでもありません。この町並みを見て、独立住宅に対して、長屋ユニットを構成する建築群は総じて町家といっていいのだと確信しました。そういうものの何もかもを、コピー的に「町家」などと呼称してよいのかどうか逡巡がありましたので、それが明確になりました。
というわけで、「現代町家」とは何なのかということが、わたしの中で立ち上がりました。そのあと、「現代町家」について53ページの組織内レポートをまとめましたが、今回の雲州への旅が大きなヒントになりました。

建築家 永田昌民 氏 (N設計室)
雲州は、典型的な独立住宅としての斐川の築地松の家と、洗練された平田の町家群(雲州町家)を持っている点で、屋外建築ミュージアムの観をなしています。これに永田さんの現代住宅が加わり、藤原木材産業さんや、今回の勉強会に参加された設計事務所の方々が奮闘すれば、建築的におもしろい地域になりそうだという予感を持ちました。
見学後は、永田さんを囲んでのトークセッションで、そのあとの交流会は、夜遅くまで賑やかく、充実した時間を送らせていただきました。
6回目の実践塾を終えて
今回で「森里海連環学実践塾」は6回目(東京・谷中で開催された予備校を含め7回目)を数えます。
四国讃岐の菅徹夫さんは、実践塾の皆勤を重ねておられます。菅さんの「ベーハ小屋」発掘の、遠い動機の一つに実践塾があるとしたら嬉しいことですが、この実践塾に参加することで、何かしら地域の活動に役立てられるものがあったら、それにすぐる喜びはありません。
今回は、わたしの準備不足と、計画の立て方に甘さがありました。反省しきりです。
次回は、長崎県の対馬を予定します。天野塾長と養老孟司さんが立ち上げられた「日本に健全な森をつくり直す委員会」と「森里海連環学実践塾」が協働でシンポジウムの現地開催を計画したいと、玄界灘の島に早くも思いを馳せています。今度は下見をしっかりね、との天野塾長の叱咤激励を受けて、近々、天野さんと、竹内典之京大名誉教授と、わたしとで対馬に渡る予定です。ホスト工務店は、長崎・輝星建設さんと福岡・長崎工務店さんです。
今回の森里海を準備いただきました、鳥取・オオニシハウスの大西清之さんと、島根・藤原木材産業の藤原徹さんに厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。






2009/12/13(日)15:35
[...] 。天野先生とは静岡県浜松市で一度お会いしていていますが、今やダム問題など民主党の知恵袋として有名な方です。詳しくは下記サイトをご覧下さい。http://www.bionet.jp/2009/07/morisatoumi06/ [...]
2009/10/9(金)10:51
屋比久淳一さま
コメントありがとうございます。
対馬での開催は、2009年1月22日(金)・23日(土)・24日(日)です。
原生林のツアー等も予定しています。
詳細については後日の告知となります。今しばらくお待ちください。
2009/10/7(水)04:06
次回の対馬での開催予定はいつでしょうか?できれば参加したいのですが。
日本のスギを未来の明るい産業として活性化できるにはどうすれば?といつも考え具体的な入り口を模索中です。
静岡県浜松市 屋比久淳一
2009/8/3(月)02:27
先日別の項に投稿したところ、小池さんから「道具の会」だから道具のことを書いて下さいとのコメントがありましたので、少しづつ私の知っていることを書いてみようと思います。
まず、自身のことから、私の祖父は松枝で材木商を営んでいた「出雲大工」の棟梁で出雲大社本殿前に「祖霊社」という建屋が残っています。彫り物に必ず日本海の波が使われます。母方の祖父は「石州左官」の棟梁で「玉造温泉」の宿屋さんをを仕事場にしていました。私も生まれは玉造温泉で、昔は八束郡玉湯町湯町灘町と言う住所でした。
島根県は今でこそ極貧県のひとつですが、銀山や銅を多く算出し日本経済の中心でした、そのことは尼子藩や出雲神話の「ヤマタの大蛇」の神話でご存知のとおりです。ヒイ川から多くの砂鉄を採集し「草薙の剣」が尻尾からでてきたことになっており、三種の神器の一つになっています。ですから天井川で「築地松」の必要があったものとおもいます、宮崎駿の「もののけ姫」の原風景になっているところです。この先は次回にします。
倉吉の近くに「三徳山三仏寺」(投げ込み堂)国宝と出雲には「鰐淵寺」があります、次回には是非お尋ねください。
2009/7/8(水)20:17
これまでは工務店を中心にした集いでしたが、今後の計画では、一般の方も参加できる企画を考えてみます。結構、ハードな集いなので、その覚悟は必要でしょうが。
2009/7/8(水)07:49
この集いには、工務店でなくても参加できるのでしょうか。