びお・七十二候

虹始見・にじはじめてあらわる

2009年04月15日 水曜日

虹始見

虹始見と書いて、にじはじめてあらわる、と読みます。
虹始見は、小雪初候の「虹蔵不見」に対置されます。「虹蔵不見」は、晩秋、日の力が弱まって虹が見えなくなる頃をいい、「虹始見」は、春になって、雨の後に虹が出始める頃をいいます。
驟雨一過したあと、まだ黒雲が去りやらぬ中天に虹があらわれるとうれしいものです。夏の虹と比べると、淡くてたちまち消えてなくなりますが、その淡さがまたいいのです。萌える山野を背景に虹がかかると幻想的で、虹が雨の弓といわれる理由がよく分かります。
「虹」を意味する漢字は、虹のほか、蜺、蝃、蝀など、みな虫偏がつきます。漢字の虹は、何故、虫偏なのか。『広辞苑』の解字では、

=形声。「虫」(=へび)+音符「工」(=つらぬく)。にじを、空にかかる大蛇に見たててできた文字。

と記されています。中国語では、虹を蛇や竜の一種と見なす風習が多く、龍虹という地名もあります。そういわれれば、虹は蛇が空にアーチを架けているように見えなくはありません。
この蛇(にじへび)にちなむ伝説は、中国だけでなく、オーストラリアや、北アメリカ、西アフリカでも知られていて、オーストラリアの場合は、カリア、ムイト(アボリジニが崇拝する虹の精霊)などと呼ばれ、それらは雨を降らせる力がある巨大な蛇を意味します。この虹のヘビは、干ばつの際に行われる雨乞いの儀式にも精霊として登場します。
川が曲がりくねっているのは虹のヘビが川を作るからという伝説もあります。「天竜川」という川の名は、そこから付けられたといわれます。
虹は、春夏秋冬、いずれの季節にも季語があります。春は、春の虹 初虹。夏は、朝虹 夕虹 虹の帯 虹の梁 虹の橋 白虹 二重虹 片虹 虹晴 虹立つ。秋と冬はずばり、秋の虹、冬の虹。

さて、きょうの一句は、大野林火(おおの りんか。/1904〜1982)の句です。

春の虹消ゆまでを子と並び立つ

この人は教師なのですね。林火は、中学校の教師でした。
生徒たちと、春の虹が消えるまでを一緒にみている光景は美しく、「並び立つ」という点に、この教師の生徒をみる視線が感じられます。こういう先生だったら生徒は幸せだな、と思います。
この句について、副助詞「まで」は体言または活用語の連体形を受けるので「消ゆるまで」でないとおかしい、という評者がいます。けれども、文法的にどうであれ「消ゆる」と詠むと、この句にあるところの香が消えてしまうように思います。すぐに消えてしまう春の虹の淡さが、「消ゆ」にはあって、「消ゆる」にはありません。どちらを取るかと言われると、わたしは前者を取ります。

紙漉のこの婆死ねば一人減る

この句は、過疎化がすすむ村にあって、黙々と越前和紙を漉く老婆を詠んだものです。過疎化と老いゆく老婆の姿が、一方において冷静に、もう一方において愛情深く詠まれています。この俳人の人格の高さがうかがえます。

ねむりても旅の花火の胸にひらく

俳句におけるポエジーという点で、大野林火は特筆すべき一人だと思います。

俳句

虹

    小 大
    ページ上へ