びおの七十二候

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虹始見・にじはじめてあらわる

晴明末候・虹始見

虹始見と書いて、にじはじめてあらわる、と読みます。
虹始見は、11月の小雪初候の「虹蔵不見にじかくれてみえず」に対置されます。「虹蔵不見」は、晩秋、日の力が弱まって虹が見えなくなる頃をいい、「虹始見」は、春になって、雨の後に虹が出始める頃をいいます。
驟雨一過しゅうういっかしたあと、まだ黒雲が去りやらぬ中天ちゅうてんに虹があらわれるとうれしいものです。夏の虹と比べると、淡くてたちまち消えてなくなりますが、その淡さがまたいいのです。萌える山野を背景に虹がかかると幻想的で、虹が雨の弓といわれる理由がよく分かります。
「虹」を意味する漢字は、虹のほか、げいていとうなど、みな虫偏がつきます。漢字の虹は、何故、虫偏なのか。『広辞苑』の解字では、

=形声。「虫」(=へび)+音符「工」(=つらぬく)。にじを、空にかかる大蛇に見たててできた文字。

と記されています。中国語では、虹を蛇や竜の一種と見なす風習が多く、龍虹という地名もあります。そういわれれば、虹は蛇が空にアーチを架けているように見えなくはありません。
この蛇(にじへび)にちなむ伝説は、中国だけでなく、オーストラリアや、北アメリカ、西アフリカでも知られていて、オーストラリアの場合は、カリア、ムイト(アボリジニが崇拝する虹の精霊)などと呼ばれ、それらは雨を降らせる力がある巨大な蛇を意味します。この虹のヘビは、干ばつの際に行われる雨乞いの儀式にも精霊として登場します。
川が曲がりくねっているのは虹のヘビが川を作るからという伝説もあります。「天竜川」という川の名は、そこから付けられたといわれます。
虹は、春夏秋冬、いずれの季節にも季語があります。春は、春の虹 初虹。夏は、朝虹 夕虹 虹の帯 虹の梁 虹の橋 白虹しろにじ 二重虹 片虹 虹晴にじはれ 虹立つ。秋と冬はずばり、秋の虹、冬の虹。

さて、きょうの一句は、大野林火おおの りんか(1904〜1982)の句です。

春の虹消ゆまでを子と並び立つ

この人は教師なのですね。林火は、中学校の教師でした。
生徒たちと、春の虹が消えるまでを一緒にみている光景は美しく、「並び立つ」という点に、この教師の生徒をみる視線が感じられます。こういう先生だったら生徒は幸せだな、と思います。
この句について、副助詞「まで」は体言または活用語の連体形を受けるので「消ゆるまで」でないとおかしい、という評者がいます。けれども、文法的にどうであれ「消ゆる」と詠むと、この句にあるところの香が消えてしまうように思います。すぐに消えてしまう春の虹の淡さが、「消ゆ」にはあって、「消ゆる」にはありません。どちらを取るかと言われると、わたしは前者を取ります。

紙漉かみすきのこの婆死ねば一人減る

この句は、過疎化がすすむ村にあって、黙々と越前和紙を漉く老婆を詠んだものです。過疎化と老いゆく老婆の姿が、一方において冷静に、もう一方において愛情深く詠まれています。この俳人の人格の高さがうかがえます。

ねむりても旅の花火の胸にひらく

俳句におけるポエジーという点で、大野林火は特筆すべき一人だと思います。

文/びお編集部

夜桜

いざわ直子作 夜桜を楽しむ帰り道
画/いざわ直子

今日からの節気「清明」は、「玄鳥至つばめきたる」「鴻雁北こうがんかえる」「虹始見にじはじめてあらわる」という、どれも春らしい、生き生きとした候になっています。
例年だと、東京の桜の満開日はおおむねこの「清明」前後です。
日本の広さと、単に暖かい、寒いだけではない自然の不思議をあらためて感じます。

青空に咲く桜並木は見事なものですが、薄明かりの中に見る夜桜は、それとは違った魅力があります。夜桜を表現するのに「妖艶」という言葉がよく用いられますが、まさに妖しく艶やかな、昼とは違った顔が人気なのでしょう。

以前も紹介したことがありますが、夜桜といえば

清水へ祇園をよぎる桜月夜
 こよひ逢ふ人みなうつくしき  与謝野晶子

という歌があります。

「みだれ髪」に収録された一首です。このころ晶子は、後の夫・与謝野鉄幹てっかんと激しい恋に落ちていました。
恋する人がみなそうであるように、見るものみなが美しく見える、ということを詠んでいます。
このとき鉄幹と共にいたのか、またはこれから鉄幹と会うところだったのか。
鉄幹と晶子の恋は、いわゆる不倫の恋であり、いまでいう略奪婚だったのですが、それにしても(いや、それだからこそ?)、恋による、「みなうつくしき」フィルターがかかった世界を詠まずにはいられなかったのでしょう。

晶子は桜を愛したため、「白桜院鳳翔晶輝大姉」の戒名がつけられ、亡くなった5月29日は「白桜忌」として偲ばれています。

花は、率直にいえば生殖器である。

牧野富太郎の「植物知識」の冒頭の言葉です。
さらにこのような記述がなされます。

この花は、種子を生ずるために存在している器官である。もし種子を生ずる必要がなかったならば、花はまったく無用の長物で、植物の上には現れなかったであろう。そしてその花形、花色、雌雄蕊の機能は種子を作る花の構えであり、花の天から受け得た役目である。ゆえに植物には花のないものはなく、もしも花がなければ、花に代わるべき器官があって生殖を司っている。

牧野は花は子孫を増やすための器官であり、そして花以外の、虫でも鳥でも獣でも、人でも、みな「続かす種属の中継ぎ役」をしている、と述べています。

「植物知識」のまえがきは、次の言葉で締めくくられています。

われらが花を見るのは、植物学者以外は、この花の真目的を嘆美するのではなくて、多くは、ただその表面に現れている美を賞観して楽しんでいるにすぎない。花に言わすれば、誠に迷惑至極と歎つであろう。花のために、一掬の涙があってもよいではないか。

しかし、多くの「夜桜」は、ソメイヨシノ(染井吉野)。人の手によって作られた、生殖機能を持たないクローン植物です。皮肉にも、牧野のいう「花の真目的」が「表面に現れている美」になっている植物です。

牧野はソメイヨシノを郷里の高知県に移入しました。
ソメイヨシノは、人の手によって増やされ、愛されています。

植物に比べ、人は随分難産です。しかし難産故に、人は助け合うようになった、という説があります。日本人のお産は年々「安産」になっていき、またその数自体も減ってきています。
与謝野鉄幹・晶子の孫である与謝野かおる氏が、一時少子化担当大臣を務めていました。少子化担当大臣は、民主党政権以降の3年弱で、11人が名を連ねます。果たして少子化担当とは何なのか。経済的な基盤づくりはもちろん重要ですが、「花のために一掬の涙を流し」、「こよひ逢ふ人みなうつくしき」という気持ちを抱くこと。「続かす種属の中継ぎ役」を果たせなくなったソメイヨシノにかわって、人が夜桜を通じて恋の花を咲かせること。そんな単純なものじゃあないよ、と笑われるのかもしれませんが、夜桜には、そういう艶めいた話が、どうしても似合うのです。

文/びお編集部
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2009年04月15日・2013年4月5日の過去記事より再掲載)