びお・七十二候

菜虫化蝶・なむしちょうとなる

2009年03月16日 月曜日
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菜虫化蝶

今日から啓蟄の末候「菜虫化蝶」です。
「なむしちょうとなる」と読んで、青虫が蝶になる季節としています。「菜虫」は、大根やカブラを食べる昆虫の総称で、特にモンシロチョウの幼虫を指します。菜の花が咲いて、モンシロチョウが舞い始めると、まさに春本番です。

蟻が 蝶の羽をひいて行く ああ ヨットのようだ
(土)

三好達治の一行詩です。前に紹介した三好の詩は、本稿2008年12月7日の更新で紹介した二行詩「雪」がありますが、この「土」もいいですね。たった二行なのに、生命の連鎖が見事に詠まれています。
さて、モンシロチョウの雌は、交尾したあと、自分が育った畑を去るそうです。収穫を待つキャベツの株から離れて、若芽をつけた別の畑に行って産卵するためです。何故、そういう行動を取るかというと、モンシロチョウの幼虫、アオムシが大きくなると、アシナガバチが飛んできて、アオムシを噛み潰して自分の巣に運んでしまうからです。
その巣の中で寄生バチ(アオムシコマユバチ)が育ち、何と20匹〜30匹のハチが飛び立つそうです。このハチの寄生率は、畑によっては90%を超えるそうです。モンシロチョウの雌は、住み替えることで、この災難を逃れるそうです。
アオムシが蝶になってひらひらと舞うのも不思議ですが、サナギのなかで、ひょっとして寄生ハチが巣食っているとしたら、それもまた不思議なことで、生物界も大変なのだと思うのです。

きょうは、中勘助の歌です。この歌は『中勘助全集』の第13巻、随筆集のなかに、いわばメモ風に、前後の脈絡なくひょいと出てくる歌で、それだけに中勘助らしい、とされる歌です。
ここにいう「なにしかも」は、いったいなぜ、どうしてまあ、といった意味です。
いったいなぜ、どうして日記をつけるのかと問われ、は、は、と笑い、わしやわしや松を植えとるのじゃ、といいます。すべては自然なまま、気儘で何が悪い、というわけです。
中勘助といえば『銀の匙』が、国語の教材として用いられていることもあり、よく知られています。『銀の匙』は、少年時代の記憶を綴った文章です。世の中に絶望したわけではないけれど、自分が頼みとするものはないと悟った彼は、ただひたすら自分の幼少年期の日々を綴ります。
銀の匙とは、少年の頃、本箱の抽出しにガラクタとともに入っていた銀製の小さなスプーンのことです。その銀の匙を、勘助は大人になっても、ときおり出して、いとおしげに触ります。勘助が、この銀の匙を何故いとおしいかといえば、その匙は、幼い頃古い茶箪笥の中に入っていたもので、それを勘助は自分だけのものにしたくて、母にねだりました。母はいいよといい、なぜ銀の匙がその茶箪笥に入っているのかを話してくれました。それはね、という調子でゆっくりと、勘助は幼年期の日々を綴るのです。
この文章を読んだ夏目漱石は、『銀の匙』が、子供の世界を描いた文章として、稀なものであることに気づき、これを「東京朝日新聞」に連載します。それを読んだ人たちは、みんな驚きました。『古寺巡礼』で知られる和辻哲郎は、この作品にどんな先人の影響も見られないこと、子どもが書いたものであるようでいてそうではなく、大人が書いたにしては子どもの心がそのまま映し出されているようだといいます。それは散文詩であり、こころに響く音楽のようであり、美しい織物のようだというのです。
『銀の匙』のさわりを紹介しますと、

ある晩かなりふけてから私は後の山から月のあがるのを見ながら花壇のなかに立っていた。幾千の虫たちは小さな鈴をふり、潮風は畑をこえて海の香と浪の音をはこぶ。離れの円窓にはまだ火影がさして、そのまえの蓮瓶にはすぎた夕だちの涼しさを玉にしてる幾枚の棄とほの白くつぼんだ花がみえる。私はあらゆる思いのうちでもっとも深い名のない思いに沈んでひと夜ひと夜に不具になってゆく月を我を忘れて眺めていた。……そんなにしてるうちにふと気がついたらいつのまにかおなじ花壇のなかに姉様が立っていた。月も花もなくなってしまった。絵のように影をうつした池の面にさっと水鳥がおりるときにすべての影はいちどに消えてさりげなく浮かんだ白い姿ばかりになるように。私はあたふたとして
「月が……」
といいかけたがあいにくそのとき姉様は気をきかせてむこうへ行きかけてたのではっとして耳まで赤くなった。そんな些細なこと、ちょっとした言葉のまちがいやばつのわるさなどのためにひどく恥かしい思いをするたちであった。姉様はそのまましずかに足をはこび花のまわりを小さくまわってもとのところへもどりながら
「ほんとうにようございますこと」
と巧みにつくろってくれたのを私は心から嬉しくもありがたくも思った。
(銀の匙)

というふうです。少年の日の微妙が、よく伝わってくる文章です。一見恬淡として綴られていますが、文章に彫琢があります。帰らぬ少年の記憶を呼び覚ましてくれるようです。
中勘助(1885〜1965年)は、東京神田生まれ。東京府立第四中学校(現在の東京都立戸山高等学校)を経て、第一高等学校から東京帝国大学文学部英文科まで続けて夏目漱石の講義を受けます。大学を卒業した後も、早稲田南町の漱石山房を訪問し、漱石山脈の一員とされますが、文壇とは距離を置き、孤高の文人とされます。野上弥生子の初恋の人としても知られています。
勘助は、散文というより、詩を書きたかったといわれます。よく知られる「塩鮭」を紹介しておきます。

狂乱や
懐疑や
絶望や
骨を噛む心身の病苦に悩み
生死の境をさまよひつつ
慰むる者とてなく息づきくらし
または薬買う場末の町の魚屋にならぶ
塩鮭のこのひときれにかつゑしこともありしな
見よや珊瑚の色美しく
脂にぬめるあま塩の鮭のきれは
われにその遠き昔をしのばせ
そぞろに箸をおきて涙ぐましむ
(塩鮭)

骨を噛む心身の病苦に悩み、生死の境を彷徨(さまよ)った勘助、そのとき、魚屋に並ぶ一切れの鮭が、「われにその遠き昔をしのばせそぞろに箸をおきて涙ぐましむ」というのです。この詩は、勘助の苦悩の叫びともいうべき詩です。いったい勘助は、何にそんなに苦しんだのでしょうか。父の死と兄の発狂が、深く影を落としているといわれます。
この勘助が、晩年になって書いた随筆のなかで、ひょいと詠んだのが、きょうの歌です。そこから感じるのは達観の心境というべきもので、『銀の匙』や『塩鮭』の作者が、そこに至ったことに、言い知れない安堵を感じます。
中勘助は、昭和45年に没しました。享年80歳でした。

俳句

モンシロチョウ

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