びおの七十二候

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芹乃栄・せりすなわちさかう

芹乃栄

5日から小寒に。この日から「寒の入り」に入ります。
小寒とは、寒気がまだ最大ではないと言う意味ですが、「小寒の氷、大寒に解く」という故事があるように、実際にはこの節気の寒さが一番きびしいとされます。
小寒の初候は、芹乃栄(せりすなわちさかう)。せりとは、七種(ななくさ)粥の具になる野菜です。
日本では昔から、正月の7日には、万病を除くとされることから七種粥を食べる風習があります。七草は、せり、なずな、ごぎょう(おぎょう=母子草)、はこべら(はこべ)、ほとけのざ(こおにたらびこ)、すずな(かぶ)、すずしろ(だいこん)を言います。
この七草粥については、現代の俳人、坪内稔典――ネンテンさんの二つの句があります。

せりなずなごぎょうはこべら母縮む
ほとけのざすずなすずしろ父ちびる

ネンテンさんは、春の七草を覚えられず、俳句に詠み込んで覚えようとして、この句を作ったといいます。岩波新書の『季語集』にご本人が書いていました。ネンテンさんの娘さんは、この句をなずな打ちに用い、母縮む、父ちびると唱えながら、日ごろの鬱憤をはらすかのように七草を叩いたといいます(笑)。

七種や今を昔の粥の味  太田鴻村

最近では、新芽を摘んで、忠実に七草を用いた粥を食する人は減っているようです。ネンテンさんの家では、なずな打ちを家庭行事としてなさっているのですね。さすが俳人の家です。

さて、前回は虚子の句、今回は蕪村の句を紹介します。

大空に羽子の白妙とどまれり  高浜虚子
(いかのぼり)きのふの空のありどころ  与謝蕪村

同じように正月の空を詠んだ句です。けれども、この二つの句はまるで趣きを異にしています。虚子は、大空に羽子を見ました。それを白妙のようだと称えました。いわば大空賛歌の句で、もし句会の発句で詠まれたなら、正月らしい華やいだ空気が、その場を大いに盛り上げることでしょう。
これに対し、蕪村の句は、空を見上げても何もないけれど、きのうは凧が上がっていた、といいます。素っ気ないというか、寂しげというか、もし句会の発句で詠まれたなら、正月から暗いと嫌われるかも知れません。しかし、個になってこれを詠むと、そこに「空」を観望されて、何とも澄み切った気持ちにさせられます。蕪村らしくていい、と思います。虚子の句は賑やかな正月番組らしく、蕪村の句は正月の教養番組らしいと考えればよくて、その両方を許容してほしくて、二つの句をご紹介した次第です。

蕪村の句に読まれたいかのぼりというのは、空を舞う凧のことです。
この漢字は国字(日本で作られた字)で、「たこ」という呼び名を含めて、江戸末期に関東から広まったものです。
凧を「タコ」と呼ぶのは関東の方言で、関西の方言では「イカ」、「いかのぼり」と呼ばれていました。凧は中国から日本に伝わりましたが、当時は「いかのぼり」とか「いか」と呼ばれていました。江戸末期に都が江戸へと移されたことが影響したのか、タコに軍配があがりました。ということは、蕪村は江戸中期、天明の人なので「いかのぼり」だったのですね。長崎では凧のことをハタと言います。ほかに「たこばた」「とんび」「たか」「たつ」「てんぐばた」といった方言があります。
凧が、「タコ」や「イカ」と呼ばれる由来は、どちらも長い足があるからです。言われてみると、何だそういうことなのかと笑ってしまいますが、では何故、海のタコやイカが空を飛ぶのか。辞書で「いかのぼり」を調べますと、「紙鳶」や「紙老鴟」という漢字が当てられています。鳶、そうトンビです。凧は、紙で出来たトンビなのです。空高く上げて、このトンビを舞うように安定させるには、イカやタコのように足を加えるのがよかったのです。

虚子は、蕪村のこの句を「別に深い意味もない句」と評しました。おもしろくも何もないというのです。正月番組のプロデュサーとしては、こんな句は迷惑なのでしょうね、きっと。だれにも分かる写生、その活写ということでいえば、いささか水を差す句です。
けれども、詩人の萩原朔太郎は、この句を絶賛しています。その一文(『郷愁の詩人与謝蕪村』岩波文庫版)を紹介しておきます。

「北風の吹く冬の空に、凧が一つ揚がっている。その同じ冬の空に、昨日もまた凧が揚がっていた。瀟条とした冬の季節。凍った鈍い日ざしの中を、悲しく叫んで吹きまくる風。硝子のように冷たい青空。その青空の上に浮かんで、昨日も今日も、さびしい凧が一つ揚がっている。飄々として唸りながら、無限に高く、穹隆の上で悲しみながら、いつも一つの遠い追憶が漂っている」

朔太郎がこの句にみた大空は、虚子の空とはあまりにも違います。ぼくは何もない空に、きのうそこに凧が揚がっていた、と解しましたが、朔太郎はきのうとおなじところに、きょうも凧が揚がっていたといいます。けれども、

『きのふの空』は既に『けふの空』ではない。しかもそのちがった空に、いつも一つの同じ凧が揚がっている。即ち言えば、常に変化する空間、経過する時間の中で、ただ一つの凧(追憶へのイメージ)だけが、不断に悲しく寂しげに、穹陵(きゅうりょう)の上に実在しているのである。こうした見方からして、この句は蕪村俳句のモチーヴを表出した哲学的標句として、芭蕉の有名な『古池や』と対立すべきものであろう」

と朔太郎はいいます。そして朔太郎は、蕪村の語法に、近代西洋の詩と共通するシンボリズムの技巧」をみます。

君あしたに去りぬ
ゆふべの心千々に何ぞ遥かなる。
君を思うて岡の辺に行きつ遊ぶ。
岡の辺なんぞかく悲しき。

朔太郎は、この本の冒頭に蕪村の句を並べてみて、「この詩の作者の名をかくして、明治時代の若い新体詩の作だといっても、人は決して怪しまないだらう」といいます。つまり、朔太郎は蕪村に、西洋の抒情詩に通じる近代性を見出したのでした。
この句は、虚子がいうように「別に深い意味もない句」だといえばいえます。でも、蕪村はそこに凧が実存していたことを、きのふのありどころの、動かぬ一点とみているのです。この深遠な視覚性は「菜の花や月は東に日は西に」や、「さみだれや大河を前に家二軒」などの句に重なっていて、蕪村的なるもの(俳画をも含めた。後者の句は俳画そのものといってよい)を、実によくあらわしているのではないか、と思います。空に浮かぶ凧をして、そのありどころをみる、この永遠の時間性こそ、要するに蕪村だと思うのです。

さて、七十二候に沿って、この文を綴っておりますが、七十二候はほぼ5日に1回の割合です。一週間という区切りで過ごしてきましたので、この5日に1回は、当初、ずいぶん戸惑いました。けれども、これを続けているうちに5日に1回の季節の巡りを実感できるようになりました。こんなにも時候は動いているのだという体験は、ぼくにとって得難いものでした。
五感の働きがよくなったように思います。

文/小池一三
※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2009年01月05日の過去記事より再掲載)

春の七草と猫