びおの七十二候

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乃東生・なつかれくさしょうず

乃東生

乃東とは、「夏枯草(かこそう)」のことで、「夏枯草」は、漢方薬に使われる紫蘇科の「靫草(うつぼくさ)」の漢名です。冬至の頃に芽を出して、夏至の頃に枯れることからこの名前が付けられました。
この枯れて茶色くなった花穂は、漢方薬に用いられます。この生薬には利尿、消炎作用があり、腫物、浮腫、腎臓炎、膀胱炎などに用いられます。和名の「靫草」は、花序の形が、矢を入れる靫に似ていることから付けられました。
乃東生は、冬至(とうじ)の初侯です。
冬至の日は「死に一番近い日」と言われ、その厄(やく)を払うためにからだを温める慣わしとして、「とうじ」にかけて「湯治」として生まれたのが柚子湯であり、野菜の少ない季節の食べ物として、冬至粥(小豆粥)や南瓜(かぼちゃ)を食べるように習慣づけられました。これらは、太陽の恵みが最も少ない時期の健康維持の秘訣のようです。
かぼちゃは保存が利き、昔は夏に収穫したものを冬至まで大切に保存していましたが、最近では南半球で生産された輸入かぼちゃを食べるようになりました。

この時期は、湯豆腐のおいしい時期でもあります。
湯豆腐(ゆどうふ)は、豆腐を使った料理の一つ。冬の代表的な鍋料理のひとつです。鍋に昆布を敷きます。塩を吹いた利尻昆布なら最高です。昆布がゆらゆらしたところで、一口大に切った豆腐を入れます。温まったところで引き揚げて、醤油、酒、みりん、出汁を合わせて作ったつけダレに、ネギ、ユズ、大根おろし、削った鰹節などを薬味にして食べます。ハクサイや鱈の切り身を煮る場合もあります。淡味が身上の湯豆腐なので、あまり味の濃いものを入れたくありません。
池波正太郎に『梅雨の湯豆腐』という小説があります。梅雨時は冷える日もあります。食通の池波は、焼き干しの鮎を出汁に使って食べたといいます。それだけで贅沢な感じがしますね。
けれども、湯豆腐は基本的には、豆腐、水、昆布だけが材料の料理です。淡白で単純で、微妙な味わいとこまやかな舌ざわりを楽しむ冬の料理です。
知り合いの京都の料理人は、湯豆腐のポイントは水だといいます。京都の地下水は良質で、その良質な水を用いて豆腐がつくられ、水にひたした昆布をゆらゆらさせて豆腐を入れるのです。その料理人は、ふぐ鍋も水だといいます。そういえば、ふぐ鍋には湯豆腐がつきものでした。
湯豆腐を詠んだ名句はたくさんあります。

湯豆腐の 一つ崩れず をはりまで   水原秋櫻子(しゅうおうし)
湯豆腐や 男の嘆き きくことも  鈴木真砂女(まさじょ)
混沌として 湯豆腐も 終りけり  佐々木有風(ゆうふう)
湯豆腐に 箸定まらず 酔ひにけり  片山鶏頭子(けいとうし)

なかでも久保田万太郎の

湯豆腐や いのちのはての うすあかり

という句は、よく知られています。
万太郎の句は、練達の玄人を思わせますが、技芸を感じさせず、その句風は高く澄んでいます。この句は、万太郎最晩年の句です。「いのちのはて」には、様々な曲折のあった長い人生を、「うすあかり」には、晩年をむかえた万太郎の淋しさが感じられます。それはまるで「湯豆腐」のようではないかという人生の滋味が、そこにあります。若い人には詠めない句です。万太郎には、湯豆腐を詠んだ句がほかにもあります。

湯豆腐の まだ煮えてこぬ はなしかな
身の冬の とどのつまりは 湯豆腐の あはれ 火加減 浮きかげん
しょせん この世は しょせん この世は 一人なり

これらには、湯豆腐というものの性格を、そのときに置かれた情景と重ね、洒脱がそこにあります。

鮟鱇もわが身の業も煮ゆるかな
ばか、はしら、かき、はまぐりや春の雪
鶏頭に秋の日のいろきまりけり
枯野はも縁の下までつづきをり
死んでゆくものうらやまし冬ごもり
叱られて目をつぶる猫春隣

万太郎の句は、いつも、しかと人生の深淵を覘き込んでいます。名人というのは、こういう人をいうのだろうと思います。
万太郎は、多くの顔を持っています。俳人というだけではありません。小説家であり、劇作家、演出家でもあります。筆者にとっては、俳人としてより、文学座の劇作家という記憶の方が濃く、『大寺學校』『蛍』『雨空』等、東京下町を舞台に市井の人々の情愛を描いた作品群は独得の世界を感じさせてくれました。日本語の美しさ、台詞を大切に芝居をつくることの意味を、万太郎ほど大切にした人はいません。
文学座は、岩田豊雄(獅子文六)・岸田國士・久保田万太郎という、文字通り文学者(文人)によって、戦時中に設立された劇団でした。文学座は、一時期、杉村春子の劇団という観があり、それはそれでよかったのですが、文人の劇団という幸せな一時期があったことを、覚えておいてほしいと思います。
万太郎の劇作は、装飾をとことん削ぎ落としたセリフで構成されていました。日常のさりげない台詞のやりとりの中から浮かびあがるのは、市井(しせい)の人が持つところの心象風景の美しさでした。これは名人芸といっていいものでした。

どこもかも、あかるく、しんとして。
 ……何だか、かう、むかァし、小さかった時分に、
こんな日があったやうな氣がします。
(『久保田万太郎全集』第7巻 中央公論社)

このセリフは、自由律の俳句といっていいものがあって、音楽的な調べがあります。
宇野重吉が、晩年、岸田国士の『驟雨』と、真船豊の『(いたち)』を演出したことがあります。いわゆる「劇作派」の戯曲を、リアリズム演劇でやってきた宇野重吉が取り上げたのは、新劇史にあっては大きな事件でした。わたしは宇野重吉の見識をそこに感じて、つよい興奮を覚えました。残念ながら、宇野重吉による久保田作品の演出は実現されませんでしたが、あの独得の「・・・・。」を、宇野重吉がどう読み取って上演したのか、興味がつきません。
これは、宇野重吉さんから直接聞いた話です。
「近頃の芝居は音楽がやたら多くって耳障りだね。何も音楽を用いなくても、セリフだけで音楽になるんだよ。舞台にいい雪を降らせれば、それで音楽になるんだよ。」
耳の痛い舞台人は多いはずです。

万太郎は、「自分の人生は逸話の連続」と自らを語っています。その人生は複雑で、こと女性関係は奇怪はちゃめちゃなものでした。いちいち書きませんが、その果ての68歳に、吉原の芸者時代の顔馴染み、三隅一子と再々婚します。一子は54歳。この一子は、よく出来た女性だったようです。
晩年に訪れた落ち着きも束の間、一子が急死します。その半年後に、万太郎は後を追うようにして亡くなります。奇禍というしかない死因でした。果たして万太郎は、赤貝を食べて喉を詰まらせて亡くなったのでした。
人は異物が入ると会厭反射が本能的に作用して吐き出すものです。その場で、あたりをはばからず吐き出せば亡くなることはありませんでしたが、この反射を、故意に抑圧する力が働いて死に至ったといわれます。万太郎のダンディズムがそうさせたようです。いかにも万太郎を思わせる逸話ですが、そうしてみると、

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり

という句は、万太郎の「白鳥の歌」のように思われてなりません。

文/小池一三
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※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2008年12月22日の過去記事より再掲載)

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