びおの七十二候

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霎時施・こさめときどきふる

霎時施
自嘲 うしろすがたのしぐれてゆくか  種田山頭火

霎時施とは、小雨が思いがけずパラパラと降ってはやむ時候をいいます。さっと降っては止むことから、「女心と秋の空」(男心と〜)を表す言葉とされます。

イギリスの諺に、 『A woman’s mind and winter wind change often(女心と冬の風)』というのがあり、これも変りやすいものの例えです。一説によれば、このイギリスの諺の影響で、日本でも「女心と〜」となったとか。

春雨が何かしら華やいだものがあるに対して、秋雨は、どこかしら淋しげな語感があります。秋雨は秋霖とも、霧雨とも呼ばれ、また秋時雨(あきしぐれ)とも呼ばれます。蕭条(しょうじょう)として冷たい雨垂れの音が聞こえる、そんな感じです。

宮崎県の日向では霧雨のことを、猫毛雨(ねこんけあめ)と呼ぶそうです。きれいな言葉ですね。日向の後背には高千穂の山々があり、それらの山に降雨をもたらすた水蒸気が、風に送られてやってくると、日向では小雨になります。こまかな雨で、まるで猫の毛のような雨だというのです。

時雨は冬の季語ですが、神無月(十月)の景物として詠まれたものが多く、「しぐる」という動詞は、比喩的に涙を流すことを意味します。

ここに紹介した種田山頭火は、漂泊放浪の俳人と呼ばれ、萩原井泉水(おぎわら せいせんすい)の流れを組む、尾崎放哉(ほうさい)と並び称される自由律俳句の著名な俳人の一人です。

自由律俳句とは、五音・七音の音数形式や一七字の形式にとらわれず、季語無用を主張し、自然のリズムを重んずる考え方です。

井泉水は、「俳句は印象より出発して象徴に向かう傾きがある。俳句は象徴の詩である」と唱えて「句の魂」を追求しました。この主張に惹かれて、種田山頭火や、尾崎放哉ら異色の門下生が集まりました。にもかかわらず、彼らが実際に顔を合わせることはありませんでした。出家遁世の人が寄り合いを持ったとしたら、おかしいですものね(笑)。

力一ぱいに泣く児と啼く鶏との朝
空を歩む朗々と月ひとり
佛を信ず麦の穂の
青きしんじつ闇を一つの灯が鵜のはしに鮎がいる
石のしたしさよしぐれけり

これらは井泉水の句です。自由律俳句というものの、季感の把握が案外に的確であったりして、季語無用を言いながら、つい出てしまうのでしょうね。

弟子の山頭火、放哉は、ともに酒癖によって身を持ち崩し旅に出ました。放哉が「静」だとすると、山頭火は「動」で、何しろ落ち着きがありませんでした。

松岡正剛の 『千夜千冊』種田山頭火のページによれば、山頭火はなぜ山頭火になったのかについて、

いろいろな推測がたっている。11歳のとき、母親が自宅の井戸に投身自殺した。山頭火は井戸からあげられた水死体を見て、愕然とした。その衝撃はおそらく山頭火から離れたことはない。父親は政治運動に狂奔していたから家政は乱脈で、それに耐えられなかった母親の自殺だったらしい。のちのちまで山頭火はこの母親の異常な死のことをデスペレートに追想している

弟の自殺、関東大震災、離婚というふうな日々も続いて、やがて山頭火は家を出ます。それはどうしょうもなく孤独な旅でした。

寂しくて寂しくて、それで旅に出る。そうすると寂しいことが動いていく。その動きが見える。いや、見えるときがある。寂しさというものが山や道のどこかで、ふうっと動く。それを句に仕立て、また行乞をする」

つまり松岡は、山頭火は行乞を「遊化」しているのであって、一途に行脚する修行僧の姿ではなかった、というのです。

そのためなのか、「自嘲うしろすがたのしぐれてゆくか」に、わざとらしさを感じる人がいたりします。自嘲と前置きしていることを含めて、業を背負い、乞食流転を言い過ぎるのでは、という人がいます。それって、堂人と言うことではないのではないか、もっと俳句は、現実に拘泥しないで抜けたものとしていけない、という見方です。

でも、それがなくなるというと、山頭火ではなくなりますが……。

炎天をいただいて乞ひ歩く
しぐるるやしぐるる山へ歩み入る
いつまで旅することの爪をきる
雨だれの音も年とつた
しぐるるや死なないでゐる

しぐれを詠んだ句の系譜は芭蕉に直結していて、師匠の井泉水を超えているという評価もあります。山頭火の句は、どれも分かりやすい句です。シチュエーション(境遇)とダイレクトに結びついており、年を老い、自嘲すること多き者にとっては、びんびん響く句であります。

ここで、趣きを変えましょう。

秋時雨を歌った詞として、北原白秋の「城ヶ島の雨」があります。日本最良の歌謡というべき歌です。上手なテナーで聴くと、利休鼠がそぼ降る城ヶ島の世界に、一気に引き込まれます。

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる

雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き

舟は ゆくゆく 通り矢のはなを
濡れて帆上げた ぬしの舟

ええ 舟は櫓でやる
櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気

雨はふるふる 日はうす曇る
舟はゆくゆく 帆がかすむ

「利休鼠の雨」という形容がいいですね。ただの灰色ではなくて「利休鼠」。

色辞典によれば、緑色を帯びた灰色、そのさらに鼠色がかった灰色。

この歌は、「利休鼠」という形容をもって、ほとんど白秋色に染められています。「どんな鼠が降ってきたのか?」と白秋に尋ねた人がいたそうです。白秋は苦笑したそうですが、愉快なエピソードです。

この歌は1913(大正2)年に作られました。

白秋に作詞を依頼したのは、島村抱月率いる「芸術座」でした。この年は、島村抱月は松井須磨子と恋愛スキャンダルを起こし、文芸協会を脱退し、松井とともに芸術座を結成した年でもありました。

この前年に、白秋は人妻との恋愛事件を起こし、その夫から「姦通罪」で告訴される事件がありました。白秋にとってこの事件は痛手となり名声は失墜、示談成立後の翌年5月に、その女性と神奈川県三浦市三崎町に移住したのでした。

つまり、スキャンダルの渦中にあった抱月と白秋の、相寄る魂が生んだ歌なのでした。それを知って、もう一度この歌詞を詠むと、実に意味深です。「雨は真珠か夜明けの霧かそれともわたしの忍び泣き」といったかと思うと、一転して「ええ舟は櫓でやる櫓は唄でやる唄は船頭さんの心意気」と飛躍するのですから……。

これは、とんでもない激情の歌であり、山頭火とはカタチを変えたシチュエーションの歌なのですね。

作曲を担当したのは梁田貞(やなだ ただし)でした。梁田は、発表会前夜に徹夜で作曲して、自ら美声を響かせるべく発表会に挑みました。

疾風怒濤の時代を表す歌でした。

関連記事:色、いろいろの七十二候 螳螂生・利休鼠の雨

※リニューアルする前の住まいマガジンびおから再掲載しました。
(2008年10月24日の過去記事より再掲載)

雨と猫