びお・七十二候

玄鳥去・つばめさる

2008年09月18日 木曜日

玄鳥去

城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』(新潮社)という本が読まれています。この本は、城山三郎の妻、容子との半世紀を綴ったもので、生涯、明るさを失わなかった亡き愛妻への惜別を、城山三郎らしい清潔な筆致で書かれています。妻に先立たれ、ふつと「そうか、もう君はいないのか」と気づいたときの喪失感と、襲ってくる寂寥感が、このタイトルによく出ています。

その城山も昨年2月に逝きました。少年のような微笑を浮かべて逝ったと言われています。
この本の版元から発行されている小冊子『波』に、読書家の児玉清はこう書いています。

「感情に溺れず、感傷にも走らず、透徹した目で事実を見つめ、虚飾や嘘を嫌う筆致で次第に明らかにされる夫婦の絆は、清々しく品位があり、静かに深く諄々と心にしみこんでくる」と。

そこに生きていたものが逝ったり、去ったりするのはつらいことです。けれども、最近の子どもは、じいさんばあさんと一緒に住むことが少なくなり、人の死に際に遭遇することが少なくなりました。

黒澤明監督の『赤ひげ』に、主演の三船敏郎(赤ひげ役)と若い医者が、人の死に立ち会う場面があります。このシーンは、大変に長いカットで、人の死に際、人を送ることの重さを十分に感じさせて余りあるものがありました。

この映画を、アキバの、あの青年は観ていなかったのだろうと思います。もし見ていたら、かならず躊躇があったと思います。躊躇もへったくれもないあの暴挙は、要するに軽いに由来します。今のゲームや何やは、人の命が実に軽く扱われていて、無機質で、痛痒ということさえ感じなくなっています。その軽さがあれを生じさせたのだと思います。

ツバメは、夏の間に家の軒下に巣をもうけ、仔を産み育て、エサを運ぶために飛翔を繰り返していました。躍動感あふれるツバメは、夏のものですね。

けれども、ツバメは、時季が来るとあいさつもなく去って行きます。「そうか、もうツバメはいないのか」と、ふと気づかされるように、あっけなく去って行きます。

家に、軒下そのものがなくなった家が増えて、ツバメが巣をかけるところも少なくなりました。雨露しのぐには、ある程度の軒下がなければなりません。ツバメが巣をかける軒下の長さがどの程度なのか、実測し、統計を取った人がいたら教えてほしいと思っています。

ツバメの飛来そのものを、ついぞ見かけなくなった地域も少なくはなく、それと家から軒下が消えたり、短くなったことが影響していないのかどうか、うーむ、これはやっぱり気になりますね。

町の工務店ネットが発行した『住まいを予防医学する本』の第三章に、ツバメの巣のことを、こんなふうに書きました。

春先に飛来したツバメは、軒先の下に巣をかけます。
巣は、土くれを方々から集め、自分の唾液を混ぜてつくります。
もし、土くれが汚染されていたらどうなるのでしょうか?

とても恐ろしいことを書いたのでした。
これを書くには、ある種の蛮勇を必要としました。人がツバメに寄せるやさしい思いを、無惨に断ち切る話なのですから。

レイチェル・カーソンが、名著『沈黙の春』を書いたときには、多分、似たようなことがあったんだろうな、ということを想像しました。しかし、彼女の洞察力は情緒的なものを厳として排し、暗い洞窟にあって、明かりを灯して奥へ奥へと入って行くように書きました。レイチェル・カーソンは、まことに勇気のある女性でした。アメリカ人の女性ジャーナリストであったアグネス・スメドレーに、まだ暗黒大陸だった中国をリポートした記録がありますが、あの国は、時に、こういう女性を登場させる国なのですね。そうそう、『大地』を書いたパール・バックも、アメリカ女性でした。

『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラではありませんが、「明日は明日の風が吹く」といって、今に果敢に踏み込むつよさが、このアメリカ女性たちにはありました。

春が華やかにやって来るのに対して、秋の訪れをさびしく感じるのは、去るものが多い時節だからです。やがて訪れる錦秋は豪奢なものだけれど、錦秋が来る前の、暑かった夏のほてりが冷めるにしたがい、徐々に訪れる秋の知らせは、何かしら侘しく寂しいものがついて回ります。

落日のなかを燕の帰るかな 

蕪村の句はやはりいい、と思います。
いいようがないほどに、侘しさや寂しさを感じさせてくれます。けれど、この侘しさや寂しさが失われていることに、現代の問題があるように思われてなりません。

俳句

ツバメ

イラスト:斉藤真

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  1. tamaさんからのコメント

    2008/9/19(金)00:07

    侘しさや寂しさに深いものを見出せるこころのあり方があったのですね。

    今の社会は、侘しさや寂しさを包み込む心のゆとりがないのでしょうかね。

    死の重さを知らないことは、生の重さも知らないのでしょうね。
    かれの命に対する重さは、彼自身が己の命を量る重さの現われなのかもしれません。
    社会のせいにしてしまってはいけないでしょうが、社会が違っていたら起こらなかったかもしれないとも思えます。

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