特集
静けさを取り戻した洞爺湖と噴火湾周辺。
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2008年初夏、洞爺湖周辺はサミットで世界の耳目を集めました。サミットが終わり、静けさを取り戻した今こそ、洞爺湖周辺を旅する好機なのかも知れません。
世界の首脳が集まっているあいだ、洞爺湖は濃霧に包まれ、有珠山、洞爺湖、羊蹄山、噴火湾をのぞむ大パノラマは見られませんでした。この地形は、どこか相模湾と箱根の山と芦ノ湖と富士山の関係に似ていないでしょうか。
羊蹄山は、別名蝦夷富士と呼ばれています。それはまた、形こそ違うものの、恐山、岩木山(津軽富士)、八甲田山に囲まれた陸奥湾と、八甲田山の裏にある十和田湖を思わせるものがあります。火山列島日本の姿、かたちを表わすものなのですね。
今回のサミットは、環境サミットといわれましたが、各国首脳に、この大きな自然と数々の魅力がちゃんと伝えられたのでしょうか。
警備のために、JR沿線の防風林がたくさん伐採されたという報道がありました。環境サミットを言いながら、その実、環境を壊したのではという批判もありました。
支笏洞爺国立公園は、98,302ヘクタールもあります。
火山とカルデラ湖と海と、それから幾つもの温泉と……。花木と山野草と、たくさんの樹々と……。この大きな自然の中に、クマやキタキツネやナキウサギ、エゾシカなどが棲んでいて、大空には、オオハクチョウやオジロワシやフクロウなどの鳥が舞っています。海には、クジラやオットセイなどのほか、たくさんの魚や貝が棲んでいます。
洞爺湖周辺には、たくさんの美術館・博物館があります。
自然そのものを舞台に、湖畔の三つのまち43キロに及ぶ彫刻アート58基が配されています。その一つ一つをゆっくり訪ねるのは如何でしょう。
洞爺湖周辺には、火山科学館・森林博物館・アイヌ記念館・昭和新山パークサービスセンター・昭和新山ガラス館・三松正夫記念館(昭和新山の生成記録で世界に名を残した三松正夫の観察記録)があり、噴火湾周辺には、縄文の丘/北黄金貝塚公園・伊達市噴火湾文化研究所・伊達市開拓記念館・有珠郷土館、虻田郷土資料館・入江高砂貝塚館・宮尾登美子文学記念館などがあります。
このうち、伊達市噴火湾文化研究所を訪ねて、いろいろ聞いて来たことをレポートします。
インタビューに応えてくださったのは伊達市噴火湾文化研究所・大島直行さんです。
噴火湾と洞爺湖は兄弟
噴火湾の深さは最大で107メートルです。洞爺湖の最大深度は183メートルです。湖面が海抜80メートルであることを差し引くと、二つの海面下の深さはほぼ等しいのです。海水と真水の違いはあるけれど、ほぼ同時期の火山、火成活動から生まれたことが、兄弟といわれるユエンです。
噴火湾には、約200種の魚が生息しています。
この湾には、春と秋に交互に流れ来る親潮と津軽暖流の影響によって、ときに南海に棲む魚が舞い込むことがあり、北と南の魚が、浅い皿に同居している自然の水族館のような海です。噴火湾には、ミンククジラ、シャチ、オットセイ、イルカといった海洋哺乳類動物もやってきます。
噴火湾に棲む貝類は42種類です。北海道近海の貝類は50種余りといわれますので、その大半が噴火湾に棲んでいます。この湾は海草も豊富で、寒流系と暖流系の海草が同居していて、コンブ・ワカメ・ノリ・マツモ・テングサなど、海の野菜を中心に総数は200種類を超えます。
噴火湾に面する伊達市の縄文人の貝塚遺跡からは、クジラ、オットセイの骨が見つかっています。それはこの土地が7000年も前から豊かな海に面していたことを物語っています。
伊達市噴火湾文化研究所・大島直行さんが語る、伊達の縄文人。
大島さんは、噴火湾の生き字引のような人です。
大島さんは、本州の縄文人に虫歯が多いのに対し、噴火湾の縄文人は虫歯が少ないといいます。大島さんは、それは食生活の違いにあるといいます。本州の縄文人がドングリやクリなどのデンプン質を多く食べていたのに対し、噴火湾一帯の縄文人は海産物を食べていました。
主食は何ですかと聞いたら、即座にオットセイという回答がありました。強風が吹いたあとにはハマグリやホタテ貝などが海岸に打ち上げられました。縄文人は、それらも食しました。
縄文前期の遺跡である北黄金貝塚からは、おびただしい数の貝殻が発掘されています。噴火湾文化研究所にそれを切り取った断面が置かれています。驚いたのは、ハマグリの貝殻の厚さでした。一個一個こんもりとして厚いのです。ホタテは巨大でウチワぐらいあったといいます。
この北黄金貝塚の縄文人は、オットセイなどの海獣から50パーセント、魚介類から38パーセントのタンパク質を取っていたことが分かっています。そういうものばかり食していたら、まず虫歯になりません。
大島さんは、伊達市の有珠モシリ遺跡から発見された2体の女性人骨のうち1体に、抜歯の風習がみられたといいます。もう1体は南海の貝輪をつけていました。大島さんは、この2体は東海地方あたりからやってきた雰囲気がするといいます。
考古学者が「雰囲気がする」と言うのに驚きましたが、分析を詰めると、最後はそういう言い回しになるのかも知れません。
貝殻と一緒に埋葬された人骨
貝塚と聞くと、たいがいの人は古代人のゴミ捨て場だと思うのではないでしょうか。しかし、北黄金貝塚からは、貝殻と一緒に丁寧に葬られた14体の人骨が発見されていて、この貝塚では、すべての生き物が一緒に埋葬されていることが分かりました。
14体の人骨は、貝殻のカルシウムに守られて、非常に美しい状態で発見され、感動ものだったといいます。そしてこのようなあり方は、アイヌ人に共通していて、それはつまり、縄文人の考え方をアイヌ人が受け継いでいたことを表している、と大島さんはいいます。
大島さんの論文では、近世以前のアイヌ人には虫歯が少なく、近世以降、近代に至って虫歯が増加したと書かれています。アリュートやエスキモーなど、高タンパク質高脂肪の海産食の極北種族に共通しているのだそうです。極北の食文化の歴史をそこにみることができます。
そうしてみると、本州から侍たちがやって来るまでの噴火湾は、縄文時代のような暮らしぶりが近世以前まで連綿と続いていたことになります。大島さんの言葉を借りれば「形質的に連続していた」ということになるのですが……。
北黄金貝塚は、小高い丘の上にあります。今は海から少し離れていますが、暖かだった縄文時代には、海はすぐ近くにあって、海の幸をいただきながらのんびりと暮らしていたのでしょう。豊かさとは何かと考えると、宇宙に人が飛ぶ現代よりも、縄文人たちの方が豊かな暮らしを営んでいたのではないでしょうか。そしてそれはアイヌ人に「形質的に」受け継がれ、そこに噴火湾の原風景――森里海の暮らしをみることができます。










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