特集
わーい、日本一だぞー!
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付録
天野礼子「日本の名河川を歩く」(講談社+α新書)より
1953 年、京都府に生まれる。中学・高校・大学を同志社に学ぶ。1988年、文学の師・開高健とともに“川の国”のダムに警鐘を与える国民運動を立ち上げ育てた。
2000年より高知県仁淀川町の営林署官舎あとを借り釣りや著作活動に通い始め、地元の人々と「仁淀川の“緑と清流”を再生する会」をつくり、木質バイオマスや林業などの勉強を重ねる。2004年から京都大学が提唱する「森里海連環学」を高知県に誘致し、現在、森と川と海のつらなりを取り戻す大規模な実験を展開中。著書に、『ダムと日本』(岩波新書)、『だめダムが水害をつくる!?』(講談社+α新書)、『市民事業』(中公新書ラクレ)、『“緑の時代”をつくる』(旬報社)、『“林業再生”最後の挑戦』(農文協)など多数。
正しい川の姿を守る人々がいる
近年、「天然アユの溯上する山隠の清流」として名を上げてきた高津川は、流程八一キロの中型河川だが、わが国ではもう絶滅寸前となった「ダムのない自然河川」である。
流れは、六日市町を源流とする本流と、本流とほぼ同規模で、西中国山地の広島県の最高峰・恐羅漢山(一三四六メートル)を源流とする匹見川から成る。匹見川は、西中国山地国定公園の表匹見峡、裏匹見峡、奥匹見峡を流域に抱える大渓谷で、五段の滝・夫婦滝・つむぎ滝・剣滝などの滝群、小沙夜淵・平田淵・屏風ヶ淵・亀ヶ淵・粋の淵などの深淵が、ブナ・ミズナラ・トチ・ケヤキなどの広葉樹や天然ヒキミスギに育まれて、現代にも清らかな流れを保っている。イワナの西限魚〝幻のゴキ〟の生息地でもある。
高津川は、本流・支流に五つの発電所(中国電力)と九つの堰堤・七つの頭首工(農業用水用の取水堰)を持つが、それらが川の流れやアユ・ヤマメなど魚族の海との往き来を大きく阻害してはいない。
高津川漁業協同組合が釣り人に配る地図には、それらの人工構造物がきちんと書き込まれている。発電所は、川の上・下流の高低差を利用して、上流の堰から取った水は山中のトンネルを通って下流の発電所へむけて落とされるようになっている。これらの発電所はかなり古くからあるが、その時代に、ダムではなく、山中にトンネルを造らせてしか発電を許可しなかった川の組合の歴史には尊敬すべきものがある。
この川には、室町時代から四〇〇年の歴史を持つ〝放ち鵜飼い〟が近年まであった(二年前に最後の鵜づかいが亡くなっている)。放ち鵜飼いとは、長良川の鵜飼いで知られるような、鵜の首に縄をつけてあやつるのではなく、河原で鵜づかい(鵜匠のこと)が鵜を放って、鵜に川から自由に魚を捕ってこさせる漁法である。高津川の河口、益田市の高津の川町には、戦前までは十数名の鵜づかいがいた。一九八二(昭和五七)年には「高津川放ち鵜飼い保存会」が結成されて、四軒の鵜づかいが、一一月から三月までの冬期の昼間に、高津川を溯って、支流・津和野川との合流である日原町あたりまで、コイやフナを獲る漁を続けていた。
流域にはアユを上手く食べる文化もあり、日原町をはじめ高津川流域の六市町村ではアユ料理が華やかだ。保存がきくよう燻製にして、一年中アユを食べる習慣もある。変わり種としては、燻製アユを使用したアユ雑煮、苦ウルカ(内臓の塩漬け)とナスを煮付けるウルカナス、真子(卵)ウルカとアユの背ごし(生のアユのブツ切り)を和える友和え。焼アユをくるむ焼アユ巻き寿司(細巻き)。九〇℃の日本酒に燻製アユと白子(精子)を浮かべるアユ酒などがある。
二〇〇三(平成一五)年三月に島根県が全国紙二紙に出した全面広告には、県の誇る歴史上の人物である、柿本人麻呂、雪舟、森鮃頼O、島村抱月と共に、高津川の天然アユがどーんと鎮座していた。高津川のアユは今や、島根県を代表する有名人(?)というわけだ。
高津川漁業組合は夏の間、二ヵ所の支所と本所の三ヵ所で、大阪・名古屋・東京へむけて宅配便でアユを出荷している。「活じめアユ」は友釣りで獲った天然魚でキロ六五〇〇~七〇〇〇円。「生アユ」は、網で獲った天然魚でキロ四五〇〇円。正組合員一六〇〇名、準組合員四〇〇名、それに遊漁者四〇〇〇名のうち二〇〇名くらいが、三ヵ所の集荷所に持ち込んで、組合に買い上げてもらう。
近年アユの間で流行している冷水病などには負けない天然の元気なアユをつくるために、昨秋は落ちアユ(産卵にむかうアユのこと)を釣って産卵を手伝い、江の川の施設で中間育成させてもらい(高津川には施設がないので)、それを今春放流したそうだ。今年は、春に河口で溯上前のアユを袋網でつかまえ、これを飼って採卵させる原種保存に取り組んでいるそうだ。
流域の人々がアユを愛しているだけで、川をダムから守れるという見本のような川だ。昭和四〇年代には日原町に建設省(今は国土交通省)のダム計画があったが、地元の反対でいつのまにか話が立ち消えになったそうだ。流域の六市町村は、基金を積み立てて「漁業振興協議会」をつくり、アユの追跡調査をしたりしている。漁協は、組合員に、森へ入って森林整備をしてくれと呼びかけたり、合成洗剤の不使用も働きかけている。
「夏になると川原にテントを張って毎日釣り三昧をしていた神戸の御仁がいたのですが、その人は、日本中の川で釣ったけどこんな川はもう他にないと言って引っ越してきてしまいました」と笑うのは、漁協の事業課長の田中誠二さん(五一歳)。
この人は、東海大学の海洋学部を出ている。神奈川県でサラリーマンをしていたが会社がつぶれ、地元に帰って海か山の仕事をしようとしていたら、高津川漁協にやとわれた。日原町生まれで、高津川で泳いで育った。小学生の時からアユのチャグリ釣り(ひっかけ)をしていたのでアユが大好きだが、今はアユ釣りができない。夏はアユの世話でいそがしすぎるからだ。
この人の友人に、海の漁協、益田市漁業協同組合の活魚担当課長の佐々木隆志さん(四八歳)がいる。こちらは、北里大学水産学部の出身。川に強い大学(北里大学)の水産学部出身者が海の組合に勤め、海に強い大学(東海大学)の海洋学部水産学科の出身者が川の組合に勤め、冬は一緒にグレ(メジナ)とチヌ(クロダイ)を狙い、春は海の組合の佐々木さんだけが渓でヤマメと遊んでいる。
二人は奥さん同士も親友で、仲良く四人ずつ子供も作っている。この二人も〝ミズガキ〟だ。そして川と海の漁協の情報交換もここでできている。妙齢(?)のこんなミズガキを川と海の組合が養っているということは、高津川が「力のある川」である証拠である。
奥匹見・裏匹見・表匹見。大支流の匹見川流域は、山歩きも、川歩きも、カヌーもできる、すべての遊びのフィールド。本流・高津川は、〝山陰の小京都〟津和野が、支流津和野川の上流にあり、そこから分水嶺をひと山越えれば山口県の名勝・萩もすぐである。
この川で必ず見てほしいのが河口。河口付近には上流からの砂がたまった中洲ができており、海岸線の両側には砂浜が広がっている。上流からの砂が届いている「正しい河口」の姿があるのだ。河口の両岸には木材の集積場があり、ここ益田市が昔は松や杉の天然材の有名な出荷港だった歴史を思い出させる。流域が〝森の文化〟を大切にする地であったことが、高津川に「正しい川の姿」を維持させてきたのではないだろうか。
流域では、国土交通省の河川局が、いくつもの大きな〝牛〟(水制)を川中に置いている。材木を牛の形に組んで水中に置き、それで洪水の勢いをやわらげるという古代からの「川の民」の知恵だ。治水をダムに押しつけてきた近数十年の歴史が日本中で見直されている今、この川の姿が教えていることは大きい。
全日空の〝天然アユ釣りパックツアー〟は、高津川・球磨川・米代川に設定されている、車と飛行機と宿の激安パック。ここ高津川では、アユのフルコース料理(別料金)を出してくれる松露苑(笘踀0856・22・2002)とホタルの見られる温泉「大谷温泉・かじか荘」(笘踀0856・23・2300)がその指定旅館になっている。
水況や川についての問い合わせは高津川漁業協同組合(笘踀0856・25・2911)。天然アユの宅配便も、ここで取り扱っている。
森里海物語 島根県吉賀町柿木村 文・小池一三
自然にやっていたら、いつの間にか、時代の方が寄ってきた。
稲刈りをおえた大井谷の棚田に、秋の陽光が降り注いでいた。棚田から立ち昇る空気は、今年もよくはたらいたという充足感に満ちていた。大井谷棚田は、六百枚以上も残っている現役の棚田である。
ここの米は石見一おいしいといわれ、かつては津和野藩の献上米とされた。山から湧き出るミネラルをたっぷり含んだきれいな水と、日当たりのよさと、昼と夜の温度差などの自然条件が、おいしい米作りに適しているからである。
棚田はおいしい米をつくる場所ではあったが、それだけではなかった。大雨が降ったときに水を貯める「天然のダム」のはたらきをしてくれ、土砂崩れや洪水を防いだり、水をこしてきれいにする装置の役割も負ってきた。
この大井谷棚田の歴史はふるく、室町時代にさかのぼる。
つまり、この棚田は六百年間も生き続けたわけだ。毎年、田おこしから始まって、畦ぬり、田植え、草取り、草刈り、稲刈りを行い、石垣の改造、補修に明け暮れ、平地の田よりはるかに手間の掛かる作業を営々としてやり遂げ、この日とおなじように、毎年毎年、秋の日をむかえたことを思うと、ほとんど感動的である。
耕して天に至る棚田は、傾斜地を利用した農耕である。
水田は水を欲するので、小さな谷池を用水源とし、棚のように段々に耕作することから棚田と呼ばれるようになった。斜面を田にするには技術がいる。大井谷の棚田の平均斜度は一/五(五メートル進んで一メートル上がる)である。法面の土を叩き、草を生やすやり方もあるが、傾斜が急であったり、耕地を増やしたい場合には石垣が用いられる。運搬機械がない時代、石はもっぱら人力に依った。
階段耕作の石垣技術は、インカ帝国の遺構にうかがうことができ、アンデス山脈のアンデスは、アンデーネス(段々畑)を語源としているという話であるが、一分のすき間もない切石積みが見事だといわれる。
これに対し、豪雨の多い日本では、一定に排水を講じて水圧崩壊を食い止めなければならず、かといって水漏れがあっても具合がわるく、要するにそういう解を持った石垣でなければならなかった。大井谷の棚田は、そうした日本的棚田の典型といってよいもので、毎年補修を続けることで独得の装置性が保たれてきた。
わたしを案内してくれた地元の工務店リンケンの田村浩一さんは、「裏コンクリートもないのに崩れないのが不思議」としきりに唸っておられたが、一見、無雑作な野面石垣にみえるが、どうして奥は深い。
と同時に、それを成り立たせてきた石組みならぬ人組みに、つよい興味を抱いた。
「結い」のチカラ
一昔前までの柿木村は、何事によらず「ゆい(結い)」がものをいった。
「ゆい」とは、手間の貸し合いである。農作業にとどまらず、家の上棟、屋根葺き、冠婚葬祭など、人手が必要なあらゆる場面で集落ぐるみで助け合う仕組みがつくられていた。この労働力の等量交換は、対等の関係が前提である。
わたしの手元に、柿木村が発行した「かきのきむらグラフイテイ・人と暮らしの百十六年」という本がある。とても出来のいい写真版村史であるが、「村の生活史」を映し出していて、かつての「ゆい」がどのようなものであったかを今に伝えている。
早乙女が一列に並んで田植えの写真、子守りの光景。稲刈りの日のおやつを食べる光景を映し出した写真には、自家製の番茶と甘柿が定番で、柿の皮は稲刈りの鎌を包丁代わりにして剥いたと説明が書かれていた。
「ゆい」のお昼のもてなしは おむすびと決まっていて、それは待遇の差がでないための取り決めだった。また「ゆい」の話し合いの席には、一戸に一人がでるが、都合で子どもが出る場合であっても、一家の代表として大人と同等に扱われたという。その会合の有さまを創造して、可愛いくて、わたしは思わず頬がゆるんだ。
昔の村には、老人には老人の、子どもには子どものはたらきがあり、役割があった。子守りや食事の支度、風呂焚きに洗たく、野菜の収穫、雑草抜きなど、みんなが働き手だった。子どもは長い時間を老人と過ごすことで、自然と生活の知恵を学んだ。
村落共同体が失われたいま、田植えする早乙女の姿は消え、田植も、稲刈りも、脱穀や袋詰めも農業機械が手早くやってくれるようになった。協働のチカラがなくてもやれるようになった。しかしながら、棚田は機械化しにくい作業効率のわるい田であって、「ゆい」がなければ、その維持は困難である。大井谷の集落は人口八十人弱に減っていて、高齢化が進んでいる。
さてどうしたものか、ということで始まったのが「助はんどうの会」である。
地域の人だけでなく、都市の人たちのチカラを借りながら、棚田を復権させようという運動である。現代版「ゆい」である。棚田オーナーは、年間三万六千円払うと百平方メートル(一反)の土地が貸し与えられる。年三回の農作業(田植え、草取り、収穫)に参加すれば、収穫米三十キロを持ち帰ることができる。津和野藩の献上米だったお米を口にできるのだから、人気が高く応募者も多い。
有機農業のメッカ
一九八○年、柿木村は有機農業への転換をはかった。
バブル景気を前にした日本経済の絶頂期であった。農業分野でも経済効率がいわれ、化学肥料と農薬によって収穫増がはかられていた時期である。そんな折の有機農業への転換は、勇気というより冒険に近かった。これに十三戸の農家が手をあげた。
明確な意思があったわけではなかった。ただ近代農業への漠然とした不安があった。
「抵抗力のついた虫や雑草を駆除するため、年を追うごとに毒性を増す農薬。いつの間にかミミズやモグラなど、どこの田や畑にもいた生き物たちはすっかり姿を消し」これでは「わしらの体がやられる」と思ったという。どうなるか分らないけれど、とにかく一歩を踏み出した。(「健康と有機農業の里」柿木村広報誌より)
待っていたのは、途方もない厄介さだった。
「野菜づくりはやはり虫との戦いになりました。殺虫剤を撒かない畑の作物は虫の格好のエサ場となり、それを一匹一匹、毎朝毎朝、手で取り除くことに。田んぼでは除草剤をやめたおかげで雑草がわが物顔で生え、これも一本一本抜いて回る。手間が二倍三倍になりました」
「牛のフンや抜いた雑草、枯れ草を山にしておけば微生物が繁殖し、上質の堆肥を作ってくれます。その堆肥を入れた田や畑の土は柔らかく、バランスのとれた適度の栄養分を蓄えて、作物は根をしっかり張り稲は倒れにくくなりました。野菜もしばらく忘れていた本来の甘みを取り戻します。それだけでなく、田に引かれた水は汚染されることなく川へ戻され、下流の田にきれいなまま供給することができます」(前掲)
気づいたことは、それが「昔ながらの農業」だったことである。目からウロコの再発見だった。改めて、先人たちは「なんと合理的だったのか」と思ったという。
近代農法が持つ問題性は、今では多くの人が知っている。土壌の物理耐性、化学的・生物的条件の劣化による地力の減退、低下の進行は避けられず、となると、またそういう状態の土に合った化学肥料が開発・投与され、いよいよ土の劣化が進む。
余談になるが、アメリカの農業は、それが極限にまで来ていて、耕地は石のように硬くなり、種はそれに合うように品種改良され、その土に種を植え付けるのにドリルを持った巨大な耕作機械が登場するに至っている。アメリカの農業は、地下水を汲み上げてのものなので、こうなるとどうにも始末が悪い。
水耕栽培を主とする日本農業は、大きな保水機能を有し、「日本人が延々とつくってきた社会装置」(「井上ひさしの農業講座」家の光協会刊)であり、夏季の水量・温度調節において、巧みな役割を果たしてきたのであるが、農薬を使った水田は、水と一緒に汚染をひろげ、残留農薬は川へと流れ込むので、これもまた、アメリカとは違う始末の悪さを持っている。
柿木村の人たちは、鮎の魚影が薄くなったことを通じて川の汚れを知り、川のコンクリート護岸工事だけでなく、それがどうやら農業のあり様と因果関係を持っているらしいことに気づいたのである。つまり、柿木村の人たちは、近代農業が環境に与えるダメージを、有機農業を通じて身をもって体験したのである。
またその普及は、市場を媒介としない直接的連帯による消費者の共同購入組織と協同して進められたので、自ずと環境意識が高まることになる。
現在、柿木村で有機栽培された旬の野菜は、消費者グループに週一回届けられ、村内はもちろん、隣県の山口県、広島県の学校給食の食材としても用いられるようになっている。
「緑の消費者」との「ゆい」が条件づけているのである。
十三軒の農家が手をあげて始まった有機農業の成果は、柿木村のほとんどの農家が、無農薬・減農薬で化学肥料を使わずに作物を育てていることに示されていて、いつの間にか時代の方が寄ってきた、というのが実感だという。
柿木村を流れる高津川
柿木村は、隣の六日市町と町村合併して吉賀町になった。けれども、柿木村は柿木村である。住居表示上も、吉賀町柿木村として残された。六日市町も、吉賀町六日市として残され、漢字の上では町の後に「市」があるということになっている。
柿木村は、過去と現在にわたって村として立っていて、これからも柿木村を守ることで自らのアイデンティティを保持しようとしている。おもしろいのは、合併六日前に発行された「かきのきむらグラフイテイ・人と暮らしの百十六年」に、この合併のことが一切書かれていないことである。「村長のことば」にもなく、あるのは愛惜をもって語られる人口一、八三一人の柿木村だけである。
柿木村は、ダムを持たない清流高津川で知られる村でもある。この川については、川の見立て人・天野礼子さんが「清流日本一」の折紙をつけている。
「近年、『天然アユの溯上する山隠の清流』として名を上げてきた高津川は、流程八一キロの中型河川だが、わが国ではもう絶滅寸前となった『ダムのない自然河川』である」(『日本の名河川を歩く』講談社+α新書)
天野さんの「私的ミシュラン」では、高津川は五十点満点で四十三点がつけられていて、「水質が良い」が二点減点、「川くだりの文化がある」がゼロ点で、「ダム(堰堤は含まない)がない」「アユが天然溯上している」「川漁師がいる」「川魚を食べさせる文化がある」「カヌーが通して下れる」「子どもが遊べる」「アユが旨い」「川の正しい文化がある」には、どれも満点が与えられている。ちなみに四万十川は四位である。
高津川のアユの魚影の濃さは定評があるが、かつてのそれは「川に黒い帯ができるほど魚は豊富だった」という。「昼休みに竿を出せば、すぐに十匹は釣れた」というのだ。
アユだけでなくツガニ(モクズガニ)も、夜の川原に行けば火箸で幾らでも捕まえることができた。雨降りの夕方には道路にうじゃうじゃいて、ほんの十四~五年前までは「ツガニ漁」という言葉さえ存在しなかったという。
ツガニは額のひろい蟹である。はさみ脚の腕節先端部、掌部、両指基部に長い軟毛が密生していて、これが藻くずをつけているように見えるので「モクズガニ」という名がつけられた。当地でそれをどうしてツガニと呼ぶのか定かでないが、この蟹、いまではすっかり貴重品になっていて、そうそう口にできるものではない。案内人の田村浩一さんが手配してくれて、運よく食することができた。味噌だけでなく、身も濃密な味だった。姿は上海蟹に似ているが、味はこちらが上回ると思った。人は蟹を食べると無口になる。しゃぶりつく合間を縫って「高津川のツガニを食べたら海の蟹は食べられんようになる」と、上目づかいにこちらをみながら、田村さんは甲高い声でいう。
四~五歳になったツガニの多くは、産卵のために川を下る。秋の雨の日や夜間にもっとも著しい。
川を下ったツガニは、体液の塩分濃度を調節するため、河口域で一週間ほど石の下でじっとしていて、やがて潮間帯時に海に出て、異性を求め合って交尾する。産卵は、交尾から二十時間くらいで始まって、直径○、三ミリほどの卵を約百万個も産む。
海で越冬した親ガニは再び川を上るのであるが、海に下らずに川で越冬した親蟹は四月上旬から五月上旬に川を下るので、約半年を周期として川と海とを交互に棲み分け、往き来していることになる。ツガニの世界を微細に覗き込むなら、壮大な生命循環が、一年を通じて川と海で繰り広げられていることになる。
百万個もの卵を産むツガニが貴重品になった、ということは、それだけ環境に異変が生じたことになる。そんな話は釧路でも聞いた。毛蟹が滅法少なくなったと……。
最近、クラゲの大発生が報じられているが、来日したカナダの海洋学者にいわせると、植物連鎖の上位にいる大型魚類が乱獲されると、漁獲対象の低次化が生じて、世界中で海の魚が減り、代わりに余ったプランクトンを食べてクラゲが大発生するのだという。
ツガニの減少は、汚染が進む川の影響だけでなく、おそらく複合的なものであろう。それにしても清流日本一の高津川にしてこうなのだから、ほかは推して知るべしである。
屋根に葺く茅は、鳶ノ子山からいただいた
「かきのきむらグラフイテイ」に、昭和十年(一九三五)ころの製材工場の内部を映し出した写真が載っている。写っている若い二人の容姿はいかにもいなせで、かっこいい。動力機械もよく手入れされていて、時代の華を感じさせる。
柿木村は、色合いのいい赤マツと赤ケヤキを伐り出す西日本最大級の製材基地として知られ、森林鉄道が走り、材木市には全国から業者が集まった。
伐採された天然木の後にはヒノキとスギが植えられた。村の広場に苗圃まで設けて植林されたというのだから、大変な数である。そのころ植えられた木が、いま伐木をむかえているのだが、村にかつての活気はない。伐っても売れないし、単価もつかないからである。
柿木村に行くには広島駅からバスが出ていて、およそ二時間の旅程であるが、その間、目にするのは山また山の連続である。山しかない道を延々と走って柿木村へと向かう。
しかし、その山が手入れされないで荒れている。台風の影響の倒木もそのまま放置されていて、立っている木はどれも細い。いうところの線香林である。
密植して間伐を繰り返すことで生長をはかる人工林は、人の手が入らないと惨めなことになる。人工林にした以上、サイクルに要する時間は違うが、山は畑と同じなのだから、伐って若返りをはからないと窮してしまう。
わたしの案内人、リンケン・田村浩一さんの前の社名は柿木林建だった。おじいさんの代には製材屋で、輸入材に侵蝕されるなかで建築に乗り出し、現在に至っている。
建築は木造住宅が主だから、ずっと周囲の山に関わって生計を立ててきたことになる。いまでも山の仕事に携わっていて、およそ百町歩の山を抱えているが、山の仕事では飯は食えないという。
柿木村に限らず、ほんの数十年前まで、日本の家の多くは近くの山の木を用い、土も、土に混ぜる藁スサも、小舞にする竹も、障子や襖の紙も、屋根材に葺く茅も、みんな近くで採れる材料を用いて建てられた。
家の屋根に用いられた茅は、役場からほど近い鳶ノ子山からもらって、みんなで葺いたと田村さんはいう。田村さんは、「ゆい」を経験した最後の世代に属するのだろう。木は山からのいただきもの、コウゾ、ミツマタ、ガンビなどの植物繊維を原料とする手漉きの紙は里からのいただきもの、漆喰に混ぜる布海苔は海からのいただきものだった。
有機農業と同じくらいに、途方もない厄介さを抱えることになるが、そういう家をどうにかして復権させたい、と田村さんはいう。
田村さんは陽気な人で、挫けないで、いろいろなことにチャレンジする人であるが、いったいに、柿木の人たちは陽気な気性の持ち主が多い。「柿木村村史」に、山陽道の影響が濃いと書かれているが、この村全体に、奇妙な明るさのようなものを感じた。それは個人を超えて遍在する地域性といえる。有機農業を始めた人たちのスピリッツはたいしたものであるが、「おっちょこちょいの成せる技」と言ってみたり、わが身を皮肉り、笑いの対象にしながら、精神の昂揚を得ようという無頼が、わたしには何とも愉快だった。
グラントワのこと
高津川の河口の街、益田に島根県芸術文化センター「グラントワ(設計・内藤廣)」がオープンした。延床面積一万八千平方メートルの大きな建物である。屋根瓦と壁瓦に、地元の石州瓦二十八万枚が用いられた。建物は、この石州瓦に覆われていて、この瓦が持つ独得の明るさに満ちている。これはなかなかの建物であるが、年間五億円の維持費が掛かるということもあって、地元では賛否両論かまびすしい。しかし、とんでもないものを造ってしまったことを、どこかでよろこんでいるような気分がみられて、石見の地の不思議さを思った。
益田港は、北海道と大阪を結んで西回り航路を往来した北前船の寄港地でもあった。この海からの開明の影響を、高津川を遡った山深い柿木村に、どこかしら感じた。森里海は自然で繋がっているだけではなく、人為を通じても繋がっていて、それだけに問われることが多い、と思った。






2008/7/24(木)16:27
国土交通省の調査による、BODが0.5mg/1L以下の川は以下の通りです。
北海道の清流
後志利別川(しりべしとしべつがわ)
北海道の長万部岳の西部を源とし、日本海へ流れる後志利別川の本流。
尻別川(しりべつがわ)
フレ岳を源とし、羊蹄山麓を経て蘭越町から日本海へ流れる北海道の河川。イトウが棲む南限。
鵡川(むかわ)
トマム岳を源とし、渓谷を抜けながらむかわ町から太平洋へ流れる北海道の河川。
ムカワのししゃもで有名。
沙流川(さるがわ)
熊見山(標高1,175m)を源とし、日高町から太平洋へ流れる河川。
日勝峠付近のエゾマツやトドマツの原生林は「沙流川源流原生林」は天然記念物に指定。
高津川以外の本州の清流
黒部川(くろべがわ)
北アルプスの鷲羽岳に源を発し、富山湾に注ぐ。川全体の8割は深い山地。
安倍川(あべかわ)
流域のすべてが静岡市内を流れる河川。一級河川としては本流・支流にひとつもダムが無い珍しい川。
宮川(みやがわ)
日本有数の多雨地帯である大台山系を源流とし、伊勢湾に注ぐ。
宮川流域は、吉野熊野国立公園、伊勢志摩国立公園、奥伊勢宮川峡県立自然公園に指定され、オオダイガハラサンショウウオなど、貴重な生き物が生息している。
球磨川(くまがわ)
熊本県と宮崎県の境に位置する国見岳の五木川を源流とし、五木村内にて五木小川と合流、以降が川辺川。人吉盆地で球磨川になり、八代海(不知火海)に注ぐ。最上川・富士川と並ぶ日本三大急流の一つ。かつては76の瀬があったが、ダムができたため、現在は48の瀬に。
2008/7/24(木)05:25
BODが0.5mg/1L以下の川は9河川しかなくて、本州では高津川など5河川というけど、それはどこですか?